第六話 忘却の獣
裏山の闇の中。
黄色い瞳が二つ。
じっとこちらを見つめている。
風が止んだ。
虫の声も聞こえない。
境内全体が息を潜めているようだった。
「蒼真」
潮が小さく呼ぶ。
「分かってる
蒼真は勾玉を握る。
この間の戦いほど強い気配ではない。
だが、嫌な感じがする。
胸の奥がざわつく。
忘却の気配。
間違いなかった。
◇
闇が動いた。
ゆっくりと。
木々の間から姿を現す。
獣だった。
狼にも見える。
狐にも見える。
しかしどちらとも違う。
全身が黒い霧でできていた。
輪郭が揺らいでいる。
存在そのものが曖昧だった。
「忘却の獣……」
潮が呟く。
「知ってるのか?」
「黄泉の王が残した影」
「人の心から零れた忘れ去られた想いを食べる」
蒼真は眉をひそめる。
「そんなのがいるのか」
「本体ほどじゃない」
「でも放っておくと神様を弱らせる」
◇
獣は境内へ降りてくる。
その足跡から黒い霧が広がる。
すると。
古い幟の色が薄くなる。
祭りの写真の記憶が曇る。
神社そのものが色褪せていくようだった。
「まずい!」
潮が叫ぶ。
「このままだと祭りの記憶を食べられる!」
◇
獣が吠えた。
声はない。
だが。
頭の中に響く。
『忘れろ』
『終わったものだ』
『意味はない』
『もう誰も覚えていない』
蒼真は歯を食いしばる。
その言葉は危険だった。
どこか納得してしまいそうになる。
祭りなんてなくても生きていける。
古い神話なんて知らなくても困らない。
そんな考えが心へ入り込んでくる。
◇
「聞くな!」
潮の声が飛ぶ。
蒼真ははっとした。
危なかった。
忘却とは。
力ずくで奪うものではない。
少しずつ。
必要ないと思わせるものなのだ。
◇
「蒼真!」
陸が叫ぶ。
「右!」
獣が飛びかかる。
蒼真は反射的に身をかわした。
石畳に黒い爪が突き刺さる。
バキッ!
石が砕けた。
「痛そうだな!」
「感想言ってる場合か!」
◇
だが。
その時。
蒼真は気づく。
獣の身体が完全ではない。
どこか欠けている。
輪郭が不安定だ。
まるで。
存在する理由を失いかけているように。
「潮」
「なに?」
「こいつ」
「祭りがなくなれば強くなるのか?」
潮の目が開く。
「そうか!」
「逆だ!」
◇
潮が前へ出る。
「この子は原因じゃない!」
「結果なんだ!」
獣が唸る。
潮は続けた。
「祭りが忘れられたから生まれた」
「だから倒しても意味がない!」
蒼真も理解する。
前と同じだ。
敵を倒せば終わる話ではない。
繋がりを取り戻さなければ意味がない。
◇
その時だった。
社殿の前の小さな神様が立ち上がる。
「そうじゃ」
震える声。
「わしは祭りが続けばそれでよい」
「消えたくないわけではない」
「皆が笑ってくれれば」
「それで……」
その身体が揺らぐ。
消えかけていた。
◇
蒼真は拳を握る。
「そんな顔するなよ」
神様が驚く。
「え?」
「まだ終わってないだろ」
「祭りまであと五日ある」
「なら諦めるには早い」
その言葉に。
神様の瞳が大きく見開かれた。
◇
勾玉が光る。
淡い蒼い光。
その光は獣ではなく。
神社全体を包み込む。
鳥居。
社殿。
幟。
石段。
そして祭りの記憶。
忘れられかけた想いが少しだけ輝きを取り戻す。
獣が苦しそうに後退する。
黒い霧が揺れる。
◇
「祭りを復活させよう」
蒼真は言った。
潮が笑う。
「うん」
陸も頷く。
「ようやく話が見えてきた」
獣は森の奥へ消えていった。
完全には消えていない。
だが、今は退いた。
祭りがどうなるか見届けるために。
まるでそう言っているようだった。
◇
夜空には満天の星。
境内に静けさが戻る。
そして。
蒼真たちの本当の仕事が始まる。
神を守るのではない。
祭りを残すために。
人と人を繋ぐために。
五日間の挑戦が始まろうとしていた。




