エピローグ 凪島の春
海風が吹いていた。
瀬戸内海らしい穏やかな風。
春の匂いを運ぶ優しい風だった。
雲がゆっくり流れている。
平和だ。
「蒼真ー」
庭から声がした。
聞き慣れた声。
顔を上げる。
潮だった。
白い帽子を被り、麦わら籠を抱えている。
「ばあちゃんがお使い頼まれた」
「なんで俺まで」
「暇そうだから」
「失礼だな」
「暇じゃないの?」
「暇だな」
潮が笑った。
その笑顔を見て。
蒼真も自然と笑っていた。
◇
二人で島の坂道を歩く。
遠くに海。
漁船。
防波堤。
猫が昼寝している。
どこまでも穏やかだった。
「平和だな」
蒼真が呟く。
「そうだね」
潮も頷く。
「世界が終わりそうだったとは思えない」
「三週間前の話なんだけど」
「もっと前な気がする」
潮が空を見上げた。
その横顔は少し嬉しそうだった。
◇
商店へ行く途中。
「蒼真くん!」
島のおばちゃんに呼び止められる。
「この前はありがとうねぇ」
「え?」
「ほら、港の掃除」
蒼真は苦笑した。
黄泉の兵との戦いの後始末で掃除しただけだ。
もちろん島の人は真実を知らない。
「魚持っていきなさい」
「いや多いですって」
「若いんだから食べる!」
断れなかった。
潮が横で笑っている。
「助けろよ」
「頑張って」
「裏切ったな」
◇
さらに歩く。
今度はみかんをもらう。
野菜をもらう。
干物をもらう。
気づけば二人とも荷物だらけだった。
「おかしい」
蒼真が言う。
「買い物に来たはずなんだ」
「島あるある」
潮が真顔で答える。
「足りないものを買いに行って」
「余計に増えて帰る」
「理不尽だろ」
◇
帰宅すると。
縁側には陸がいた。
当然のように。
当然の顔で。
スイカを食べている。
「なんでいるんだ」
「遊びに来た」
「人の家だぞ」
「知ってる」
「帰れ」
「ひどい」
全然傷ついていない顔だった。
潮が笑い出す。
蒼真もつられて笑う。
◇
夕方。
三人で海へ行った。
防波堤に座る。
夕日が海を赤く染めている。
波の音。
カモメの声。
静かな時間。
「なあ」
陸が言う。
「今年の夏祭りさ」
「ん?」
「去年より盛大にしようぜ」
潮が振り向く。
「急にどうしたの」
「なんとなく」
陸は照れ臭そうに鼻を掻いた。
「神様も来るかもしれないし」
潮が吹き出した。
蒼真も笑う。
「来るかもな」
「来るよ」
潮が言う。
とても優しい顔で。
「きっと喜ぶ」
◇
夕日が沈んでいく。
空が茜色に染まる。
蒼真はその景色を見つめた。
東京では見られなかった景色。
最初は戸惑った島。
帰りたいと思ったこともあった。
でも今は違う。
ここが居場所だった。
祖母がいて。
陸がいて。
潮がいる。
それだけで十分だった。
「蒼真」
潮が呼ぶ。
「ん?」
「おかえり」
蒼真は少し驚く。
そして笑った。
「ただいま」
瀬戸内海の春風が吹く。
穏やかで。
優しくて。
どこか懐かしい風だった。
◇
帰り道。
三人は島の坂道を並んで歩いていた。
夕暮れ。
街灯がぽつぽつと灯り始める。
「そういえばさ」
陸が言った。
「なんだ?」
「俺、まだ聞いてないんだけど」
「何を」
「お前、いつまでいるんだ?」
蒼真は少し考える。
「さあな」
「でも」
海を見る。
凪島を見る。
「もう少しここにいたい」
そう答えた。
陸は頷く。
「なら良かった」
「なんでだよ」
「遊び相手がいなくなるから」
「小学生か」
「失礼な」
潮が吹き出す。
陸も笑う。
蒼真も笑う。
◇
しばらく歩いた後。
陸が珍しく真面目な声で言った。
「ありがとな」
蒼真が足を止める。
「急にどうした」
「いや」
「なんとなく」
陸は前を向いたまま続ける。
「お前が島に来てからさ」
「退屈しなくなった」
「失礼だな」
「本当だよ」
陸は笑う。
でも少しだけ照れていた。
「だから」
「これからもよろしく」
蒼真は一瞬驚き。
そして笑った。
「こちらこそ」
短い言葉。
けれど十分だった。
親友になるのに。
長い説明はいらない。
◇
その夜。
蒼真は自室で窓を開けていた。
月明かりが差し込む。
机の上には父のノート。
勾玉。
そして。
見覚えのない封筒が置かれていた。
「……?」
いつ置かれたのか分からない。
差出人もない。
蒼真は封を開く。
一枚の古い和紙。
そこに書かれていたのは。
たった一行。
【神守へ。
出雲にて、神々の集いが始まる。】
その下には見知らぬ紋章。
そして。
地図
目的地は――。
出雲大社
窓の外で風が吹く。
まるで。
新しい旅の始まりを告げるように。
神話は終わった。
けれど。
大切な日々はここから始まる。
そんな予感とともに。




