第一話 帰ってきた島
フェリーの甲板に立ち、結城蒼真は海を眺めていた。
春の潮風が頬を撫でる。
空はよく晴れていた。
東京では見ることのなかった青が、どこまでも広がっている。
海も。
空も。
境界が曖昧になるほど青かった。
蒼真はフェンスに手をかける。
三年ぶりだった。
凪島に帰るのは。
両親が亡くなってから、一度も来ていない。
来られなかった、という方が正しいかもしれない。
事故のあと、何も考えられなくなった。
親戚や学校や進路や。
気づけば毎日をこなすだけで精一杯だった。
そんな中で、島のことを思い出す余裕なんてなかった。
――帰っておいで。
祖母から届いた手紙は短かった。
たったそれだけ。
けれど、その文字はどこか温かかった。
蒼真はポケットから折り畳まれた手紙を取り出す。
何度も読み返したせいで、端が少し柔らかくなっていた。
そこへ船内アナウンスが流れる。
『まもなく凪島港へ到着いたします――』
蒼真は顔を上げた。
水平線の先に小さな島影が見える。
緑に覆われた山。
白い防波堤。
小さな港。
胸の奥が少しだけざわついた。
懐かしい。
そう思うのに、同時に知らない場所にも感じる。
三年という時間は、それほど長かった。
フェリーはゆっくりと港へ近づいていく。
桟橋には何人か人影が見えた。
漁師らしい男たち。
買い物帰りのおばあさん。
そして――
小柄な女性。
白髪混じりの髪。
紺色の上着。
蒼真は思わず笑った。
「ばあちゃん……」
その人は、こちらに気づいたように手を振る。
結城千鶴だった。
◇
港へ降りると、潮の香りが強くなった。
千鶴は蒼真を見るなり目を細めた。
「大きくなったねぇ」
「三年しか経ってないよ」
「三年もだよ」
そう言って笑う。
蒼真も少しだけ笑った。
久しぶりに自然に笑えた気がした。
千鶴は蒼真の荷物を見て眉をひそめる。
「重そうだねぇ」
「持つよ」
「そうかい」
そう言いながらも、千鶴はキャリーケースの持ち手を掴もうとする。
「だからいいって」
「昔は抱っこしてたのにねぇ」
「その話やめて」
千鶴が楽しそうに笑う。
蒼真はため息をついた。
でも嫌な気分ではなかった。
港から家までは歩いて十分ほど。
坂道を上っていく。
道端には見覚えのある石垣。
古い家並み。
畑。
そして遠くに見える海。
どれも昔のままだった。
まるで時間だけが置き去りになったように。
「学校は来週からだったね」
「うん」
「陸くんも喜ぶよ」
蒼真は足を止めた。
「陸?」
「覚えてないのかい?」
「……ああ」
少し考えて思い出す。
隣の家の男の子。
真っ黒に日焼けしていて、いつも走り回っていた。
蒼真より少し背が高かった。
「まだ島にいるの?」
「いるよ」
千鶴は笑う。
「相変わらず元気だよ」
それは容易に想像できた。
やがて家が見えてきた。
高台に建つ古い日本家屋。
瓦屋根。
広い縁側。
そして――
庭の大きな楠。
蒼真は思わず足を止めた。
記憶のままだった。
子どもの頃、何度も登ろうとして叱られた木。
その根元に、小さな石の祠がある。
「まだあるんだな」
蒼真が言うと、千鶴は振り返った。
「当たり前だよ」
穏やかな声だった。
「大事なものだからねぇ」
そう言って祠を見つめる横顔は、どこか懐かしくて――少しだけ不思議だった。
蒼真はその時気づかなかった。
千鶴の視線が、祠だけではなく、その向こう側に向けられていたことに。
まるで、誰かを見ているかのように。
そのことを。




