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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第一部 神話の帰る場所

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プロローグ 最初の島

雨の音が窓を叩いていた。


 春とはいえ、まだ少し肌寒い夜だった。


 小学三年生だった結城蒼真は、布団に潜り込みながら大きな欠伸をする。


「まだ寝ないのか?」


 部屋の扉が開き、父が顔を覗かせた。


 手には一冊の本。


 何度も読まれて少し角の擦り切れた、古い本だった。


「読む?」


 蒼真は目を輝かせる。

「読む!」


 父は笑いながらベッドの脇へ腰掛けた。


 表紙には難しい字が並んでいる。

 蒼真には読めない。


「また神話?」

「また神話だ」


 父は楽しそうだった。


 蒼真には不思議だった。


 神話なんて昔話なのに、どうしてそんなに面白いのだろう。


 父は本を開いた。


 紙の擦れる音がする。


「昔々――」

 静かな声が部屋に響く。


「日本がまだなかった頃のお話だ」

「え?」


 蒼真は首を傾げた。


「日本がないってどういうこと?」

「そのままの意味だよ」


 父は笑う。


「まだ国も島もなかったんだ」

「じゃあみんなどこに住んでたの?」


「誰も住んでない」

「変なの」


「変だな」


 二人で笑った。


 父はページをめくる。


 そこには大きな海の絵が描かれていた。


「その頃、イザナギとイザナミという神様がいた」

「神様」


「そう」


 父は絵を指差した。


「二柱の神様は天の浮橋という場所から海を見下ろしていた」


「ふーん」


 蒼真は布団を抱きしめる。

 少し眠くなってきた。


「そして矛で海をかき混ぜたんだ」

「海を?」


「そう」


「なんで?」

「国を作るため」


「作れるの?」

「神様だからな」


 蒼真は納得した。

 神様ならできるかもしれない。


 父は再びページをめくる。


 そこには海に浮かぶ島の絵があった。


「最初に生まれた島の名前は――」


 少し間を置いて言う。


「おのころ島」

「おのころ?」


「そう」

「変な名前」


「そうか?」


 父は苦笑する。


「かっこいいと思うけどな」


 蒼真は首を傾げた。


 やっぱりよく分からない。


「どこにあるの?」

 何気なく聞いた。


 父は少しだけ考える。


 そして窓の外の雨音に耳を傾けるように視線を向けた。


「さあな」

「知らないの?」


「今はもう誰も知らないかもしれない」

「なくなったの?」


 父はすぐには答えなかった。


 少しだけ寂しそうな顔をした気がした。


「どうだろうな」


 それから優しく笑う。


「忘れられてるだけかもしれない」

「忘れられてる?」


「うん」


 父は蒼真の頭を撫でた。


「でもな」


 温かい手だった。


「忘れられたからって、なくなるわけじゃない」


 蒼真は眠そうな目で父を見上げる。


「そうなの?」


「ああ」


 父は頷いた。


「大事なものはね」


 そこで言葉を切る。


「誰かが覚えている限り、ちゃんとそこにあるんだ」


 蒼真には難しい話だった。


「ふーん……」


 返事も曖昧になる。


 まぶたが重い。


 父の声が遠くなっていく。


「いつか分かる日が来るよ」


 優しい声だった。


 蒼真は最後にもう一度だけ本を見る。


 海の中から生まれた島。


 その絵だけがぼんやりと目に焼き付いた。


 そして、そのまま眠りへ落ちていった。


 父の手の温もりとともに。


 雨は静かに降り続いていた。

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