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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第一部 神話の帰る場所

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第一話 帰ってきた島②

荷物を部屋へ運び終えた頃には、太陽は西へ傾き始めていた。


 蒼真に用意された部屋は二階の奥。

 子どもの頃に使っていた部屋だった。

 机も、本棚も、そのまま残っている。


 窓を開けると潮風が流れ込んできた。


 遠くで船のエンジン音が聞こえる。

 カモメの鳴き声も。

 東京では聞こえなかった音ばかりだった。


 蒼真はベッドに腰を下ろした。


 少し疲れていた。

 移動の疲れもある。


 だが、それ以上に心が落ち着かなかった。


 久しぶりの島。

 久しぶりの家。


 どこも変わっていないのに、自分だけが変わってしまったような気がする。


 机の引き出しを開ける。


 古いビー玉。

 折れた鉛筆。

 貝殻。


 子どもの頃の宝物が残っていた。


 思わず苦笑する。

「懐かしいな……」


 その時だった。


 コンコン。


 扉が叩かれる。


「蒼真、ご飯だよ」

 千鶴の声だった。

 

 ◇


 夕食は豪華だった。


 鯛の煮付け。

 刺身。

 炊き込みご飯。

 味噌汁。

 漬物。


 食卓いっぱいに料理が並んでいる。


「多すぎない?」

「久しぶりだからねぇ」


 千鶴は嬉しそうだ。


 蒼真も箸を取る。

 一口食べて驚いた。


「うまい」

「そうかい」

「めちゃくちゃうまい」


 思わず本音が出る。


 千鶴は目を細めた。

「それはよかった」


 食卓には穏やかな時間が流れた。

 東京にいた頃は、こんなふうにゆっくり食事をすることは少なかった。


 両親が亡くなってからはなおさらだ。


 ふと、そのことを思い出してしまう。

 箸が止まった。


 千鶴は何も言わない。

 ただ黙ってお茶を注いでくれる。


 その優しさがありがたかった。


 ◇


 夜。

 布団に入っても眠れなかった。

 時計を見る。

 午前零時過ぎ。


 静かな夜だった。


 耳を澄ますと波の音が聞こえる。

 東京では考えられない静けさだった。


 蒼真は寝返りを打つ。

 目を閉じる。


 すると嫌でも思い出してしまう。

 父のこと。

 母のこと。


 病院。

 葬儀。


 もう二度と会えないという現実。


 胸が苦しくなった。


 蒼真は起き上がる。

 少し外の空気を吸おうと思った。


 窓へ近づく。


 その時だった。


「……?」


 庭に人影が見えた。

 月明かりに照らされている。


 千鶴だった。


 楠の木の下。

 祠の前に立っている。


 こんな時間に何をしているのだろう。

 蒼真は窓越しに様子を見守った。


 千鶴はゆっくりと頭を下げる。

 まるで誰かに挨拶するように。

 そして静かに口を開いた。


「帰ってきたよ」


 蒼真は首を傾げる。

 誰に話しているんだ?


 千鶴は続けた。

「あの子が帰ってきた」


 優しい声だった。

 どこか安心したような。


 長い間待ち続けていたものがようやく叶ったような。

「約束の日が近いねぇ」


 そう呟いて微笑む。


 しかし祠の前には誰もいない。


 いるはずがない。


 なのに。


 その瞬間。


 チリン――


 小さな鈴の音が鳴った。


 蒼真は目を見開く。


 風は吹いていない。

 木の枝も揺れていない。

 それなのに鈴の音だけが響いた。


 千鶴は驚かなかった。


 まるで返事を聞いたかのように頷く。


「うんうん」

「そうだねぇ」


 蒼真の背筋にぞくりとしたものが走った。


 誰かいるのか?

 見えないだけで。

 祠の向こうに。

 楠の陰に。


 月明かりの届かない場所に。


 だが何も見えない。

 ただ静かな夜が広がっているだけだ。


 やがて千鶴はもう一度頭を下げた。


「よろしく頼むよ」

 そう言って家へ戻っていく。


 庭には誰も残らない。


 いや。


 本当に誰もいなかったのだろうか。


 蒼真はしばらく窓の外を見つめていた。


 胸の奥に、小さな違和感だけを残して。


 その時。


 月明かりの中で。

 祠の横に何か白いものが見えた気がした。


 少女のような。

 人影のような。


 だが瞬きをした次の瞬間には消えていた。


「……気のせいか」

 蒼真は呟く。


 疲れているのだろう。


 そう自分に言い聞かせながら布団へ戻った。


 しかしその夜。

 夢の中で蒼真は見た。

 どこまでも続く海を。


 そして。


 その海の真ん中に立つ、白い服の少女の姿を。


 少女は笑っていた。


 まるで。


 ずっと待っていたかのように。

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