第一話 帰る場所
港へ着いたのは、夕方だった。
西の空は、淡い橙色に染まっている。
船から降りる人々の足音。
迎えに来た家族の声。
荷物を引く音。
それぞれの「帰る場所」へ向かって、人々が散っていく。
蒼真たちも、ゆっくりと岸壁へ降りた。
足元が陸へ戻った瞬間。
蒼真は、少しだけ不思議な気持ちになった。
「……帰ってきたね」
澪が言った。
「うん」
たったそれだけ。
けれど、その言葉が胸の奥へ静かに落ちていった。
◇
駅へ向かう道は、旅へ出る前と何も変わっていなかった。
見慣れた交差点。
いつもの商店。
学校帰りの子どもたち。
自転車のベル。
夕餉の支度をする家から漂う、味噌汁の匂い。
旅に出る前なら、何気なく通り過ぎていた風景。
今は、なぜか懐かしく感じる。
潮が立ち止まった。
「……なんか変だね」
「何が?」
「同じ道なのに、違って見える」
陸が笑った。
「俺も思った」
蒼真は黙って町を見つめた。
旅先では、何でもない道が特別だった。
知らない町。
知らない家。
知らない人。
だから、一つ一つをよく見た。
でも。
帰ってきた今は、知っている場所の中にも、旅先で身につけた目が残っている。
◇
駅前の小さな公園。
ベンチ。
街路樹。
自動販売機。
その横に、古い花壇がある。
誰かが植えたらしい朝顔が、支柱へ絡みついていた。
青い花が一輪。
夕方の風に揺れている。
蒼真は足を止めた。
「……綺麗だね」
澪が笑った。
「旅が終わったのに、まだそういうの見るんだ」
「旅の前から、花は咲いてたんだけどな」
蒼真も笑う。
けれど。
今は、見える。
それだけなのかもしれない。
◇
家へ帰る前に、四人はいつもの場所へ集まった。
旅立つ前にも、ここで話をした。
あのときは、期待と不安でいっぱいだった。
今は違う。
少し疲れていて。
少し寂しくて。
でも、それ以上に満たされていた。
陸が言った。
「これで、島めぐり終わりか」
「うん」
潮が海の方角を見る。
「なんか、長かったような短かったような」
澪が笑う。
「私は、もっと長くてもよかった」
「分かる」
蒼真も頷いた。
「でも、終わったから大切なんだと思う」
三人が蒼真を見る。
蒼真は少し照れながら続けた。
「ずっと続いてたら、きっと一つ一つを大切にできなかった」
「終わるから、覚えていたいと思う」
◇
タケルは少し離れたところに立っていた。
夕暮れの空を見上げている。
蒼真が尋ねた。
「タケルは、寂しくないの?」
「寂しい?」
「島めぐりが終わること」
タケルはしばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「私は、神だからな。」
「そういうところ便利だよね」
澪が笑う。
タケルも笑った。
「だが。」
少しだけ声が柔らかくなる。
「人の旅を見るのは、好きだった。」
「出会い、別れ、また歩く。」
「そのたびに、人は少しずつ変わっていく。」
「お前たちもそうだ。」
蒼真は自分の手を見る。
旅へ出る前と、何も変わっていない。
傷もない。
特別な力を得たわけでもない。
けれど。
心の中には、たくさんの景色が増えていた。
◇
夜。
家へ帰り、荷物をほどく。
旅先で買った小さな土産。
祭りでもらったもの。
貝殻。
旅日記。
どれも小さなものばかりだった。
けれど、一つ一つに思い出がある。
蒼真は机の上へ旅日記を置いた。
表紙を撫でる。
そして、最後のページを開いた。
今日の日付。
少し考えてから、書き始める。
> 『帰ってきた。』
その下へ。
> 『けれど、旅に出る前の自分には戻れない。』
ペン先が止まる。
窓の外から、夜風が入ってくる。
どこか遠くで虫が鳴いている。
蒼真は窓を少し開けた。
海の匂いはしない。
それでも。
なぜか、あの海を思い出した。
◇
もう一度、机へ戻る。
最後に一行だけ書いた。
> 『旅は、帰ることで終わるのではない。帰ってから始まるものもある。』
日記を閉じる。
部屋の灯りを消す。
暗闇の中で、蒼真は目を閉じた。
父母ヶ浜の夕日。
金刀比羅宮の石段。
島の祭り。
海の風。
名前も知らない人の笑顔。
そして。
最後に見た、遠ざかる島影。
全部が、静かに胸の中へ沈んでいく。
眠る前。
蒼真は小さく笑った。
「……また行こう」
誰に聞かせるでもなく。
未来の自分へ向けて。
小さな約束を残した。
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
旅の終わりの夜は、思っていたより静かだった。




