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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第九章 旅の終わりに

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第一話 帰る場所

港へ着いたのは、夕方だった。


 西の空は、淡い橙色に染まっている。


 船から降りる人々の足音。


 迎えに来た家族の声。


 荷物を引く音。


 それぞれの「帰る場所」へ向かって、人々が散っていく。


 蒼真たちも、ゆっくりと岸壁へ降りた。


 足元が陸へ戻った瞬間。


 蒼真は、少しだけ不思議な気持ちになった。


 「……帰ってきたね」


 澪が言った。


 「うん」


 たったそれだけ。


 けれど、その言葉が胸の奥へ静かに落ちていった。


 ◇


 駅へ向かう道は、旅へ出る前と何も変わっていなかった。


 見慣れた交差点。


 いつもの商店。


 学校帰りの子どもたち。


 自転車のベル。


 夕餉の支度をする家から漂う、味噌汁の匂い。


 旅に出る前なら、何気なく通り過ぎていた風景。


 今は、なぜか懐かしく感じる。


 潮が立ち止まった。


 「……なんか変だね」


 「何が?」


 「同じ道なのに、違って見える」


 陸が笑った。


 「俺も思った」


 蒼真は黙って町を見つめた。


 旅先では、何でもない道が特別だった。


 知らない町。


 知らない家。


 知らない人。


 だから、一つ一つをよく見た。


 でも。


 帰ってきた今は、知っている場所の中にも、旅先で身につけた目が残っている。


 ◇


 駅前の小さな公園。


 ベンチ。


 街路樹。


 自動販売機。


 その横に、古い花壇がある。


 誰かが植えたらしい朝顔が、支柱へ絡みついていた。


 青い花が一輪。


 夕方の風に揺れている。


 蒼真は足を止めた。


 「……綺麗だね」


 澪が笑った。


 「旅が終わったのに、まだそういうの見るんだ」


 「旅の前から、花は咲いてたんだけどな」


 蒼真も笑う。


 けれど。


 今は、見える。


 それだけなのかもしれない。


 ◇


 家へ帰る前に、四人はいつもの場所へ集まった。


 旅立つ前にも、ここで話をした。


 あのときは、期待と不安でいっぱいだった。


 今は違う。


 少し疲れていて。


 少し寂しくて。


 でも、それ以上に満たされていた。


 陸が言った。


 「これで、島めぐり終わりか」


 「うん」


 潮が海の方角を見る。


 「なんか、長かったような短かったような」


 澪が笑う。


 「私は、もっと長くてもよかった」


 「分かる」


 蒼真も頷いた。


 「でも、終わったから大切なんだと思う」


 三人が蒼真を見る。


 蒼真は少し照れながら続けた。


 「ずっと続いてたら、きっと一つ一つを大切にできなかった」


 「終わるから、覚えていたいと思う」


 ◇


 タケルは少し離れたところに立っていた。


 夕暮れの空を見上げている。


 蒼真が尋ねた。


 「タケルは、寂しくないの?」


 「寂しい?」


 「島めぐりが終わること」


 タケルはしばらく黙っていた。


 そして、静かに笑った。


 「私は、神だからな。」


 「そういうところ便利だよね」


 澪が笑う。


 タケルも笑った。


 「だが。」


 少しだけ声が柔らかくなる。


 「人の旅を見るのは、好きだった。」


 「出会い、別れ、また歩く。」


 「そのたびに、人は少しずつ変わっていく。」


 「お前たちもそうだ。」


 蒼真は自分の手を見る。


 旅へ出る前と、何も変わっていない。


 傷もない。


 特別な力を得たわけでもない。


 けれど。


 心の中には、たくさんの景色が増えていた。


 ◇


 夜。


 家へ帰り、荷物をほどく。


 旅先で買った小さな土産。


 祭りでもらったもの。


 貝殻。


 旅日記。


 どれも小さなものばかりだった。


 けれど、一つ一つに思い出がある。


 蒼真は机の上へ旅日記を置いた。


 表紙を撫でる。


 そして、最後のページを開いた。


 今日の日付。


 少し考えてから、書き始める。


 > 『帰ってきた。』


 その下へ。


 > 『けれど、旅に出る前の自分には戻れない。』


 ペン先が止まる。


 窓の外から、夜風が入ってくる。


 どこか遠くで虫が鳴いている。


 蒼真は窓を少し開けた。


 海の匂いはしない。


 それでも。


 なぜか、あの海を思い出した。


 ◇


 もう一度、机へ戻る。


 最後に一行だけ書いた。


 > 『旅は、帰ることで終わるのではない。帰ってから始まるものもある。』


 日記を閉じる。


 部屋の灯りを消す。


 暗闇の中で、蒼真は目を閉じた。


 父母ヶ浜の夕日。


 金刀比羅宮の石段。


 島の祭り。


 海の風。


 名前も知らない人の笑顔。


 そして。


 最後に見た、遠ざかる島影。


 全部が、静かに胸の中へ沈んでいく。


 眠る前。


 蒼真は小さく笑った。


 「……また行こう」


 誰に聞かせるでもなく。


 未来の自分へ向けて。


 小さな約束を残した。


 窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。


 旅の終わりの夜は、思っていたより静かだった。

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