第二話 旅のあと
朝。
カーテンの隙間から差し込んだ光で、蒼真は目を覚ました。
しばらく天井を見つめる。
昨日までなら、目を開けた瞬間に聞こえていた。
波の音。
船のエンジン。
遠くから聞こえる鳥の声。
けれど今朝は違った。
聞こえてきたのは、いつもの町の音だった。
車の走る音。
新聞を配るバイク。
どこかの家で開く雨戸。
そして、近所の犬の鳴き声。
蒼真は布団の中で、小さく笑った。
――帰ってきたんだ。
◇
台所へ行くと、窓から朝の光が差し込んでいた。
湯気の立つ味噌汁。
焼いた魚。
炊きたてのご飯。
旅の途中では、土地ごとの料理を食べた。
見たことのない食材。
その土地ならではの味。
祭りの日に振る舞われた料理。
どれも美味しかった。
けれど。
久しぶりに見る、いつもの朝食も悪くない。
蒼真は椅子へ座り、箸を取った。
味噌汁を一口。
「ああ……」
思わず声が漏れた。
「何?」
澪が笑う。
「いや。」
「美味しいなって。」
「いつもの味なのに?」
「うん。」
蒼真は笑った。
「だからかな。」
◇
食事を終えると、荷物の整理を始めた。
リュックから一つずつ取り出していく。
着替え。
タオル。
小さな土産。
貝殻。
そして、旅日記。
机の上へ並べる。
すると。
潮が一枚の紙を取り出した。
「これ、何だっけ?」
「祭りでもらった札だよ。」
「そうだった。」
陸も覗き込む。
「懐かしいな。」
四人の間に、次々と旅の記憶が戻ってくる。
「ここ、雨降ったよね。」
「そうそう。」
「この日は朝早かった。」
「この写真、陸だけ変な顔してる。」
「やめろ!」
笑い声が部屋に響く。
旅は終わった。
でも、思い出を話すだけで、またその場所へ戻れる。
◇
昼前。
蒼真は外へ出た。
久しぶりの町を歩く。
交差点を曲がる。
商店街を通る。
小さな公園を抜ける。
すると。
道端に咲いている花が目に入った。
白い小さな花。
名前は分からない。
けれど、旅の途中で見た花に少し似ていた。
蒼真は足を止めた。
しゃがんで眺める。
風が吹く。
花が揺れる。
たったそれだけのことなのに。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
旅に出る前なら、きっと気づかなかった。
いや。
気づいていたとしても、立ち止まらなかっただろう。
◇
公園のベンチに座る。
蝉の声が聞こえる。
空には入道雲。
夏はまだ終わっていない。
蒼真は旅日記を開いた。
新しいページ。
そこへ、今日のことを書き始める。
> 『旅から帰った。』
少し考える。
> 『町は何も変わっていない。』
その下へ。
> 『でも、自分の見方が変わっていた。』
ペンを止める。
風が吹く。
旅先で聞いた言葉が、ふいに蘇った。
――海は毎日、顔が違う。
蒼真は顔を上げた。
海はここから見えない。
それでも。
同じ空の下にある。
そう思うと、不思議と近く感じた。
◇
午後。
四人は久しぶりに集まった。
「で。」
陸が言う。
「次はどうする?」
蒼真が顔を上げる。
「次?」
「旅。」
陸は当たり前のように言った。
「島めぐり終わったからって、もう旅しないわけじゃないだろ?」
潮が笑う。
「次はどこへ行く?」
澪も楽しそうに二人を見る。
蒼真は少し考えた。
旅へ出る前なら、すぐに地図を広げただろう。
けれど今は。
すぐには決めなかった。
「まだ、決めなくていいんじゃない?」
三人が蒼真を見る。
「どうして?」
「旅の途中で、行きたい場所が見つかることもあるから。」
潮が笑った。
「それ、タケルみたい。」
「そうかな。」
そのとき。
後ろから声がした。
「よい考えだ。」
振り返る。
タケルが立っていた。
「旅は、目的地を決めてから始まるとは限らぬ。」
「誰かの言葉。」
「風の匂い。」
「祭りの音。」
「ふと目にした景色。」
「そういうものが、人を次の場所へ呼ぶこともある。」
蒼真は笑った。
「じゃあ、次の場所が呼んでくれるまで待つ?」
タケルは頷いた。
「それも旅だ。」
◇
夕方。
四人はそれぞれの家へ帰っていった。
蒼真も家へ戻る。
玄関を開ける。
いつもの匂い。
いつもの部屋。
いつもの机。
けれど。
机の上に置かれた旅日記だけが、以前とは違って見えた。
蒼真は表紙へそっと手を置く。
島めぐりは終わった。
瀬戸内の旅も、一度ここで区切りを迎えた。
でも。
旅を終えたことで、ようやく見えてきたものもある。
遠くへ行かなければ見えないもの。
そして。
遠くへ行ったからこそ、帰ってきた場所で見つけられるもの。
蒼真は窓を開けた。
夏の風が入ってくる。
木々が揺れる。
どこかで風鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
その音を聞きながら、蒼真は思った。
――旅は、まだ終わっていない。
ただ。
今は少しだけ、ここにいる。
帰ってきた場所で。
次の風を待つために。
夜が静かに降りてきた。
そしてその夜。
蒼真の旅日記の、まだ白いページが一枚。
月明かりの中で、静かに開かれていた。




