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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第九章 旅の終わりに

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第二話 旅のあと

朝。


 カーテンの隙間から差し込んだ光で、蒼真は目を覚ました。


 しばらく天井を見つめる。


 昨日までなら、目を開けた瞬間に聞こえていた。


 波の音。


 船のエンジン。


 遠くから聞こえる鳥の声。


 けれど今朝は違った。


 聞こえてきたのは、いつもの町の音だった。


 車の走る音。


 新聞を配るバイク。


 どこかの家で開く雨戸。


 そして、近所の犬の鳴き声。


 蒼真は布団の中で、小さく笑った。


 ――帰ってきたんだ。


 ◇


 台所へ行くと、窓から朝の光が差し込んでいた。


 湯気の立つ味噌汁。


 焼いた魚。


 炊きたてのご飯。


 旅の途中では、土地ごとの料理を食べた。


 見たことのない食材。


 その土地ならではの味。


 祭りの日に振る舞われた料理。


 どれも美味しかった。


 けれど。


 久しぶりに見る、いつもの朝食も悪くない。


 蒼真は椅子へ座り、箸を取った。


 味噌汁を一口。


 「ああ……」


 思わず声が漏れた。


 「何?」


 澪が笑う。


 「いや。」


 「美味しいなって。」


 「いつもの味なのに?」


 「うん。」


 蒼真は笑った。


 「だからかな。」


 ◇


 食事を終えると、荷物の整理を始めた。


 リュックから一つずつ取り出していく。


 着替え。


 タオル。


 小さな土産。


 貝殻。


 そして、旅日記。


 机の上へ並べる。


 すると。


 潮が一枚の紙を取り出した。


 「これ、何だっけ?」


 「祭りでもらった札だよ。」


 「そうだった。」


 陸も覗き込む。


 「懐かしいな。」


 四人の間に、次々と旅の記憶が戻ってくる。


 「ここ、雨降ったよね。」


 「そうそう。」


 「この日は朝早かった。」


 「この写真、陸だけ変な顔してる。」


 「やめろ!」


 笑い声が部屋に響く。


 旅は終わった。


 でも、思い出を話すだけで、またその場所へ戻れる。


 ◇


 昼前。


 蒼真は外へ出た。


 久しぶりの町を歩く。


 交差点を曲がる。


 商店街を通る。


 小さな公園を抜ける。


 すると。


 道端に咲いている花が目に入った。


 白い小さな花。


 名前は分からない。


 けれど、旅の途中で見た花に少し似ていた。


 蒼真は足を止めた。


 しゃがんで眺める。


 風が吹く。


 花が揺れる。


 たったそれだけのことなのに。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 旅に出る前なら、きっと気づかなかった。


 いや。


 気づいていたとしても、立ち止まらなかっただろう。


 ◇


 公園のベンチに座る。


 蝉の声が聞こえる。


 空には入道雲。


 夏はまだ終わっていない。


 蒼真は旅日記を開いた。


 新しいページ。


 そこへ、今日のことを書き始める。


 > 『旅から帰った。』


 少し考える。


 > 『町は何も変わっていない。』


 その下へ。


 > 『でも、自分の見方が変わっていた。』


 ペンを止める。


 風が吹く。


 旅先で聞いた言葉が、ふいに蘇った。


 ――海は毎日、顔が違う。


 蒼真は顔を上げた。


 海はここから見えない。


 それでも。


 同じ空の下にある。


 そう思うと、不思議と近く感じた。


 ◇


 午後。


 四人は久しぶりに集まった。


 「で。」


 陸が言う。


 「次はどうする?」


 蒼真が顔を上げる。


 「次?」


 「旅。」


 陸は当たり前のように言った。


 「島めぐり終わったからって、もう旅しないわけじゃないだろ?」


 潮が笑う。


 「次はどこへ行く?」


 澪も楽しそうに二人を見る。


 蒼真は少し考えた。


 旅へ出る前なら、すぐに地図を広げただろう。


 けれど今は。


 すぐには決めなかった。


 「まだ、決めなくていいんじゃない?」


 三人が蒼真を見る。


 「どうして?」


 「旅の途中で、行きたい場所が見つかることもあるから。」


 潮が笑った。


 「それ、タケルみたい。」


 「そうかな。」


 そのとき。


 後ろから声がした。


 「よい考えだ。」


 振り返る。


 タケルが立っていた。


 「旅は、目的地を決めてから始まるとは限らぬ。」


 「誰かの言葉。」


 「風の匂い。」


 「祭りの音。」


 「ふと目にした景色。」


 「そういうものが、人を次の場所へ呼ぶこともある。」


 蒼真は笑った。


 「じゃあ、次の場所が呼んでくれるまで待つ?」


 タケルは頷いた。


 「それも旅だ。」


 ◇


 夕方。


 四人はそれぞれの家へ帰っていった。


 蒼真も家へ戻る。


 玄関を開ける。


 いつもの匂い。


 いつもの部屋。


 いつもの机。


 けれど。


 机の上に置かれた旅日記だけが、以前とは違って見えた。


 蒼真は表紙へそっと手を置く。


 島めぐりは終わった。


 瀬戸内の旅も、一度ここで区切りを迎えた。


 でも。


 旅を終えたことで、ようやく見えてきたものもある。


 遠くへ行かなければ見えないもの。


 そして。


 遠くへ行ったからこそ、帰ってきた場所で見つけられるもの。


 蒼真は窓を開けた。


 夏の風が入ってくる。


 木々が揺れる。


 どこかで風鈴が鳴った。


 ちりん。


 ちりん。


 その音を聞きながら、蒼真は思った。


 ――旅は、まだ終わっていない。


 ただ。


 今は少しだけ、ここにいる。


 帰ってきた場所で。


 次の風を待つために。


 夜が静かに降りてきた。


 そしてその夜。


 蒼真の旅日記の、まだ白いページが一枚。


 月明かりの中で、静かに開かれていた。

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