第十一話 海の向こうへ
港へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
夏の空は高く、白い雲がゆっくりと流れている。
岸壁には、小さな漁船が何隻も並んでいた。
潮の満ち引きに合わせて、船体が静かに揺れている。
ロープが軋む音。
船底へ当たる波の音。
遠くから聞こえる汽笛。
旅の終わりを告げるような、静かな港の音だった。
蒼真は岸壁の先まで歩き、海を見つめていた。
青い海。
その向こうには、いくつもの島影が霞んでいる。
あの島も。
その向こうの島も。
これまで歩いてきた場所だった。
「……終わるんだね」
澪が隣に立った。
蒼真はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「うん」
島めぐりは、今日で終わる。
そう思うと、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。
けれど、不思議と悲しくはなかった。
◇
陸と潮もやってきた。
陸は背負っていた荷物を地面へ下ろし、肩を回す。
「結構歩いたなあ」
「最初の頃なんて、まだ旅が始まったばかりだと思ってたのに」
潮が笑った。
「島、いくつ巡ったんだっけ?」
蒼真は少し考える。
いくつもの島の名前が浮かんでは消えていく。
海。
山。
小さな港。
古い神社。
祭りの太鼓。
夕暮れの道。
そして、そこで暮らしていた人たち。
「……数えなくてもいいんじゃない?」
澪が言った。
「だって、もう全部つながってるから」
蒼真は笑った。
「そうだね」
◇
船が入ってきた。
白い船体が、陽射しを受けて輝いている。
乗船が始まる。
四人も荷物を抱えて船へ乗り込んだ。
タケルは最後に一度、港を振り返った。
「行くぞ」
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
船が岸を離れる。
ゆっくりと。
ほんの少しずつ。
陸地が遠ざかっていく。
港が小さくなる。
建物が小さくなる。
人の姿が、点のようになっていく。
蒼真は船尾に立ち、ずっとその景色を見ていた。
「さよなら」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
島へ。
海へ。
祭りへ。
出会った人たちへ。
そして、そこで過ごした時間へ。
◇
船が沖へ出ると、風が強くなった。
海鳥が船の後ろを追うように飛んでいる。
白い翼が、青い空の中を滑っていく。
澪が手すりへ寄りかかった。
「ねえ」
「うん?」
「最初に島へ渡ったときのこと、覚えてる?」
蒼真は笑った。
「覚えてるよ」
「私、すごく楽しみだった」
「陸は?」
「俺?」
陸が苦笑する。
「迷子にならないか心配だった」
潮が吹き出した。
「最初から?」
「最初からだよ」
四人の笑い声が、海の上へ広がる。
◇
笑い声が静まると、蒼真は海を見つめた。
旅の始まりには、ただ「知らない場所を見てみたい」と思っていた。
けれど。
今なら分かる。
島を巡ったというより。
人の暮らしを巡っていたのだ。
祭りを守る人。
海で働く人。
神社を掃除する人。
旅人へ声をかけてくれた人。
名前も知らない人から受け取った、小さな親切。
あの人たちがいたから、景色が景色だけではなくなった。
◇
蒼真は旅日記を取り出した。
ページをめくる。
最初の頃の文字。
まだ少し硬い。
旅先の情報が多く、地名や時間が細かく書かれている。
それが少しずつ変わっている。
人の言葉。
風の匂い。
祭りの音。
夕焼けの色。
誰かの笑顔。
そして、短い感謝の言葉。
蒼真はそのページを眺めながら、ふっと笑った。
「変わったね」
澪が覗き込む。
「何が?」
「この日記」
「最初は、見たものばかり書いてた」
「今は?」
蒼真は少し考える。
「……感じたことを書いてる」
タケルが静かに頷いた。
「旅が、お前の中へ入ったのだろう」
◇
蒼真は新しいページを開いた。
しばらく何も書かなかった。
船の揺れ。
潮の匂い。
風の音。
遠ざかる島影。
それらを胸の中へしまう。
そして、ゆっくりとペンを走らせた。
> 『島めぐりが終わる。』
一行だけ書いて、しばらく眺める。
その下へ続ける。
> 『けれど、島で出会った人たちとの時間まで終わるわけではない。』
さらに一行。
> 『これから先、海を見れば思い出すだろう。』
ペンが止まる。
そして最後に。
> 『あの島で、あの人たちが今日も暮らしていることを。』
蒼真は静かに日記を閉じた。
◇
しばらくすると、船の向こうに陸地が見えてきた。
旅の終着点。
戻っていく場所。
けれど、蒼真には以前とは違って見えた。
帰る場所がある。
だから旅ができる。
そして。
旅に出たからこそ、帰る場所の意味も分かる。
澪が海を振り返った。
「また来ようね」
蒼真は頷いた。
「うん」
陸も。
潮も。
何も言わずに頷いた。
それは父母ヶ浜で交わした約束と同じだった。
いつか、またこの海へ。
◇
タケルが船の先を見つめる。
「では、帰ろう」
その声に、蒼真は少し笑った。
「うん」
島めぐりは終わった。
けれど、旅は終わらない。
これまで歩いた道も。
出会った人も。
祭りの音も。
海の匂いも。
夕焼けも。
全部、これからの自分たちの中に残っていく。
船は静かに進んでいく。
遠ざかる島々が、水平線の向こうへ消えていく。
蒼真は最後に一度だけ振り返った。
そして、小さく呟いた。
「ありがとう」
風が吹いた。
その声をさらって、海の向こうへ運んでいく。
まるで島々が、
「またおいで」
と答えてくれているようだった。
蒼真は笑った。
そして、前を向いた。
新しい旅へ。
新しい季節へ。
四人を乗せた船は、ゆっくりと港へ近づいていった。




