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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第十話 海へ帰る朝

翌朝。


 父母ヶ浜には、まだ人影が少なかった。


 夜の名残を残した空は薄い灰色で、水平線の向こうから、ゆっくりと朝の光が滲み始めている。


 波は昨夜より少しだけ大きい。


 寄せては返し、砂浜に細い線を描いていた。


 蒼真は一人、海辺に立っていた。


 昨日の夕方。


 この場所で、四人は小さな約束をした。


 ――いつか、またこの海へ。


 その言葉を思い出す。


 不思議だった。


 たった一晩しか経っていないのに、もうこの浜が少し懐かしく感じる。


 「早いね。」


 背後から澪の声がした。


 振り返ると、澪が小さなリュックを背負って立っていた。


 「眠れなかった?」


 「うん。」


 蒼真は笑う。


 「海の音が聞こえてたから。」


 澪も海を見る。


 「私も。」


 やがて陸と潮もやってきた。


 四人で並んで、朝の海を眺める。


 誰も急いで話さなかった。


 ただ、海の音を聞いていた。


 ◇


 少し離れた場所で、網を持った男性が砂浜を歩いていた。


 まだ朝早いというのに、もう仕事を始めている。


 蒼真が軽く頭を下げると、男性も笑って手を上げた。


 「おはよう。」


 「おはようございます。」


 「旅かい?」


 「はい。」


 男性は海を見ながら言った。


 「昨日は夕日を見たんか。」


 「はい。すごくきれいでした。」


 「そうか。」


 男性は嬉しそうに笑った。


 「この浜はな。」


 「夕方だけがきれいなんやない。」


 蒼真が海を見る。


 朝の海は、昨日とはまるで違っていた。


 黄金色ではない。


 鏡でもない。


 ただ、静かな青。


 「朝は朝でええ。」


 男性はそう言って、網を肩に担ぎ直した。


 「海は毎日、顔が違うけん。」


 「晴れの日もあれば、荒れる日もある。」


 「それでも、海は海や。」


 その言葉を残して、男性は海へ向かって歩いていった。


 ◇


 澪が小さく笑う。


 「昨日の夕日も。」


 「今朝の海も。」


 「どっちも同じ海なんだね。」


 「うん。」


 蒼真は頷いた。


 旅先で見る景色は、二度と同じにはならない。


 同じ場所でも。


 同じ海でも。


 時間が変われば、光が変わる。


 風が変わる。


 そして、見る人の心も変わっている。


 ◇


 四人は荷物をまとめ、浜を離れることにした。


 振り返る。


 父母ヶ浜は、朝の光の中で静かに広がっていた。


 昨日のような観光客の歓声もない。


 写真を撮る人も少ない。


 ただ、海と空と砂浜。


 それだけ。


 蒼真は深く頭を下げた。


 「ありがとう。」


 澪も続く。


 「また来ようね。」


 「うん。」


 四人は歩き出した。


 ◇


 町へ戻る途中、小さな商店の前で足を止めた。


 軒先に、木箱が置かれている。


 中には、夏野菜が並んでいた。


 トマト。


 茄子。


 胡瓜。


 小さな札には、


 「朝採れ ご自由にどうぞ」


 と書かれている。


 「これも、お接待なのかな。」


 潮が尋ねる。


 タケルは微笑んだ。


 「形が違うだけで、同じものだ。」


 「誰かが誰かを思って置いたもの。」


 蒼真は小さなトマトを一つ手に取った。


 赤く熟している。


 太陽の匂いがした。


 店の奥から、おばあさんが顔を出した。


 「旅の人かい?」


 「はい。」


 「なら、持っていきな。」


 「でも……。」


 「ええんよ。」


 おばあさんは笑った。


 「次に誰かに親切にしてやれば、それで十分。」


 蒼真は、その言葉に少しだけ目を見開いた。


 昨日の少年の言葉が蘇る。


 ――お返しじゃなくて、おすそ分け。


 そして、金刀比羅宮で聞いた言葉。


 ――感謝することも、祈り。


 旅の中で受け取ったものが、少しずつ一本の線になっていく。


 ◇


 商店を出て、四人はトマトを分け合った。


 かじる。


 甘い。


 少し酸っぱい。


 朝露のような水分が口の中に広がった。


 澪が笑う。


 「香川って、うどんだけじゃないんだね。」


 陸が頷く。


 「それ言ったら怒られそう。」


 「でも。」


 蒼真は笑った。


 「確かに、そうだね。」


 うどん。


 飴。


 田んぼ。


 山。


 海。


 祭り。


 そして、そこに暮らす人たち。


 旅を始めた頃には、土地の名前と景色しか知らなかった。


 今は違う。


 その土地で出会った人の顔まで思い浮かぶ。


 それが、旅というものなのかもしれない。


 ◇


 駅へ向かう道。


 遠くから列車の音が聞こえてきた。


 四人は足を止める。


 線路の向こうには、青い空。


 そのさらに向こうには海が見える。


 列車が通り過ぎる。


 一瞬だけ、窓の向こうに乗客の顔が見えた。


 手を振っている子ども。


 眠そうに窓へ寄りかかる学生。


 新聞を読む老人。


 それぞれの日常が、一本の列車に乗って流れていく。


 「次は、どこへ行く?」


 澪が尋ねた。


 蒼真は海を見た。


 その向こうには、まだたくさんの島がある。


 まだ会っていない人。


 まだ知らない祭り。


 まだ見ていない海。


 そして――。


 帰りを待っている人たち。


 「海へ。」


 蒼真は答えた。


 「もう少し、海のそばを歩こう。」


 タケルが静かに笑った。


 「それがよい。」


 列車の音が遠ざかる。


 四人は、また歩き始めた。


 讃岐の風が背中から吹いている。


 昨日までの旅を包み込みながら。


 そして、まだ見ぬ海へ向かって。


 新しい風が、静かに吹き始めていた。

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