第十話 海へ帰る朝
翌朝。
父母ヶ浜には、まだ人影が少なかった。
夜の名残を残した空は薄い灰色で、水平線の向こうから、ゆっくりと朝の光が滲み始めている。
波は昨夜より少しだけ大きい。
寄せては返し、砂浜に細い線を描いていた。
蒼真は一人、海辺に立っていた。
昨日の夕方。
この場所で、四人は小さな約束をした。
――いつか、またこの海へ。
その言葉を思い出す。
不思議だった。
たった一晩しか経っていないのに、もうこの浜が少し懐かしく感じる。
「早いね。」
背後から澪の声がした。
振り返ると、澪が小さなリュックを背負って立っていた。
「眠れなかった?」
「うん。」
蒼真は笑う。
「海の音が聞こえてたから。」
澪も海を見る。
「私も。」
やがて陸と潮もやってきた。
四人で並んで、朝の海を眺める。
誰も急いで話さなかった。
ただ、海の音を聞いていた。
◇
少し離れた場所で、網を持った男性が砂浜を歩いていた。
まだ朝早いというのに、もう仕事を始めている。
蒼真が軽く頭を下げると、男性も笑って手を上げた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
「旅かい?」
「はい。」
男性は海を見ながら言った。
「昨日は夕日を見たんか。」
「はい。すごくきれいでした。」
「そうか。」
男性は嬉しそうに笑った。
「この浜はな。」
「夕方だけがきれいなんやない。」
蒼真が海を見る。
朝の海は、昨日とはまるで違っていた。
黄金色ではない。
鏡でもない。
ただ、静かな青。
「朝は朝でええ。」
男性はそう言って、網を肩に担ぎ直した。
「海は毎日、顔が違うけん。」
「晴れの日もあれば、荒れる日もある。」
「それでも、海は海や。」
その言葉を残して、男性は海へ向かって歩いていった。
◇
澪が小さく笑う。
「昨日の夕日も。」
「今朝の海も。」
「どっちも同じ海なんだね。」
「うん。」
蒼真は頷いた。
旅先で見る景色は、二度と同じにはならない。
同じ場所でも。
同じ海でも。
時間が変われば、光が変わる。
風が変わる。
そして、見る人の心も変わっている。
◇
四人は荷物をまとめ、浜を離れることにした。
振り返る。
父母ヶ浜は、朝の光の中で静かに広がっていた。
昨日のような観光客の歓声もない。
写真を撮る人も少ない。
ただ、海と空と砂浜。
それだけ。
蒼真は深く頭を下げた。
「ありがとう。」
澪も続く。
「また来ようね。」
「うん。」
四人は歩き出した。
◇
町へ戻る途中、小さな商店の前で足を止めた。
軒先に、木箱が置かれている。
中には、夏野菜が並んでいた。
トマト。
茄子。
胡瓜。
小さな札には、
「朝採れ ご自由にどうぞ」
と書かれている。
「これも、お接待なのかな。」
潮が尋ねる。
タケルは微笑んだ。
「形が違うだけで、同じものだ。」
「誰かが誰かを思って置いたもの。」
蒼真は小さなトマトを一つ手に取った。
赤く熟している。
太陽の匂いがした。
店の奥から、おばあさんが顔を出した。
「旅の人かい?」
「はい。」
「なら、持っていきな。」
「でも……。」
「ええんよ。」
おばあさんは笑った。
「次に誰かに親切にしてやれば、それで十分。」
蒼真は、その言葉に少しだけ目を見開いた。
昨日の少年の言葉が蘇る。
――お返しじゃなくて、おすそ分け。
そして、金刀比羅宮で聞いた言葉。
――感謝することも、祈り。
旅の中で受け取ったものが、少しずつ一本の線になっていく。
◇
商店を出て、四人はトマトを分け合った。
かじる。
甘い。
少し酸っぱい。
朝露のような水分が口の中に広がった。
澪が笑う。
「香川って、うどんだけじゃないんだね。」
陸が頷く。
「それ言ったら怒られそう。」
「でも。」
蒼真は笑った。
「確かに、そうだね。」
うどん。
飴。
田んぼ。
山。
海。
祭り。
そして、そこに暮らす人たち。
旅を始めた頃には、土地の名前と景色しか知らなかった。
今は違う。
その土地で出会った人の顔まで思い浮かぶ。
それが、旅というものなのかもしれない。
◇
駅へ向かう道。
遠くから列車の音が聞こえてきた。
四人は足を止める。
線路の向こうには、青い空。
そのさらに向こうには海が見える。
列車が通り過ぎる。
一瞬だけ、窓の向こうに乗客の顔が見えた。
手を振っている子ども。
眠そうに窓へ寄りかかる学生。
新聞を読む老人。
それぞれの日常が、一本の列車に乗って流れていく。
「次は、どこへ行く?」
澪が尋ねた。
蒼真は海を見た。
その向こうには、まだたくさんの島がある。
まだ会っていない人。
まだ知らない祭り。
まだ見ていない海。
そして――。
帰りを待っている人たち。
「海へ。」
蒼真は答えた。
「もう少し、海のそばを歩こう。」
タケルが静かに笑った。
「それがよい。」
列車の音が遠ざかる。
四人は、また歩き始めた。
讃岐の風が背中から吹いている。
昨日までの旅を包み込みながら。
そして、まだ見ぬ海へ向かって。
新しい風が、静かに吹き始めていた。




