表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
127/131

第九話 夕凪の約束

夕日が沈んだあとも、四人はすぐには帰らなかった。


 浜辺には、まだ薄い茜色が残っている。


 空の高いところから、少しずつ青が深くなっていく。


 さっきまで鏡のように空を映していた潮だまりも、もう空の色と海の色の境目が分からなくなっていた。


 風は、止まっていた。


 波も静かだった。


 瀬戸内の海が、眠りにつく前のように穏やかだった。


 「……夕凪って、こういうことなんだね」


 澪が小さく言った。


 蒼真は答えず、ただ海を見つめていた。


 昼間の賑わいはもうない。


 遠くに数人の人影があるだけ。


 子どもたちの声も聞こえなくなり、砂浜には波の音だけが残っている。


 寄せて。


 返して。


 また寄せる。


 その繰り返し。


 ◇


 陸が砂浜へ腰を下ろした。


 「最初に海を渡ったときってさ。」


 「こんなに静かじゃなかったよね」


 蒼真も隣へ座る。


 「ああ。」


 潮がその後ろへ腰を下ろした。


 「いろんなことがあったもんね。」


 澪も膝を抱える。


 誰も、最初から話そうとはしなかった。


 島で出会った人。


 祭り。


 神社。


 海。


 山。


 火を守る人。


 旅の途中でもらった食べ物。


 名前も知らない人からかけてもらった言葉。


 思い出そうとしなくても、次々と浮かんでくる。


 ◇


 蒼真は、旅日記を膝の上に置いた。


 ずいぶん厚くなっている。


 最初の頃は、まだ真っ白なページが多かった。


 今では、ところどころ紙が膨らんでいる。


 挟み込んだ葉。


 小さな紙片。


 祭りでもらった札。


 誰かが描いてくれた絵。


 旅の途中で拾ったもの。


 ページをめくるたび、時間が戻ってくる。


 「これ。」


 澪が覗き込む。


 「最初の島のときだ。」


 「懐かしい。」


 陸も笑った。


 「まだ蒼真、ずっと地図ばっかり見てたよな。」


 「仕方ないだろ。」


 「道、分からなかったんだから。」


 「今だって迷うけどね。」


 潮が笑う。


 四人の笑い声が、静かな浜辺へ小さく広がった。


 そして、すぐに夜の中へ溶けていった。


 ◇


 しばらくして、蒼真が言った。


 「……旅って、終わるのかな。」


 誰もすぐには答えなかった。


 海の向こうに、一つだけ灯りが見える。


 船だろうか。


 ゆっくりと移動している。


 タケルがその灯りを見ながら言った。


 「道が終われば、旅は終わる。」


 「だが。」


 「旅で得たものまで消えるわけではない。」


 蒼真は黙って聞いている。


 「人は歩いた場所を忘れることがある。」


 「だが、その場所で出会った人の言葉は、ふとした瞬間に蘇る。」


 「風の匂いを嗅いだとき。」


 「夕焼けを見たとき。」


 「誰かから優しくされたとき。」


 タケルは微笑んだ。


 「そういうとき、旅はまた始まる。」


 ◇


 澪が海を見ながら呟く。


 「じゃあ、旅って……。」


 「帰ってからも続くんだね。」


 「ああ。」


 タケルは頷いた。


 「心の中で。」


 その言葉を聞いて、蒼真はしばらく黙っていた。


 やがて旅日記を開く。


 今度は、いつものように言葉を探さなかった。


 浮かんだままを書いた。


 > 『今日、旅が終わることを少し寂しいと思った。』


 そこで一度、ペンを止める。


 海を見る。


 暗くなった浜辺。


 遠くの灯り。


 隣にいる三人。


 そして、少し離れたところで海を眺めるタケル。


 蒼真は続けた。


 > 『でも、終わるからこそ、また来たいと思えるのかもしれない。』


 最後に、一行。


 > 『いつか、またこの海へ。』


 ◇


 「それ、約束?」


 澪が尋ねた。


 蒼真は少し笑った。


 「うん。」


 「じゃあ、私も。」


 澪が言う。


 陸も続いた。


 「俺も。」


 潮も笑う。


 「もちろん。」


 四人は海を見つめたまま、静かに頷いた。


 大げさな約束ではない。


 何年後になるかも分からない。


 本当に戻ってこられるかも分からない。


 それでも。


 また、この海を見よう。


 それだけでよかった。


 ◇


 タケルは少し離れたところで、その様子を見ていた。


 その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。


 「約束というものは、不思議だな。」


 蒼真が振り返る。


 「何が?」


 「まだ来ていない未来を、今の心で大切にする。」


 「だから、人は約束をする。」


 澪が笑う。


 「タケルも約束する?」


 「私か?」


 「うん。」


 タケルは少し考えた。


 そして、海へ向かって静かに言った。


 「では。」


 「皆がいつか、この海へ戻ってきたとき。」


 「私も、ここにいよう。」


 蒼真が笑った。


 「ずっと?」


 「神だからな。」


 「そこは便利なんだね。」


 四人の笑い声が、また浜辺に響いた。


 ◇


 夜空には、星が少しずつ増えていた。


 海の向こうから、涼しい風が吹き始める。


 夕凪が終わったのだ。


 波が、少しだけ大きくなる。


 砂浜へ寄せた水が、昼間の足跡を一つずつ消していく。


 蒼真はその様子を見つめていた。


 「足跡、消えちゃうね。」


 陸が言った。


 「うん。」


 蒼真は笑う。


 「でも、また歩けばいい。」


 その言葉に、誰も何も言わなかった。


 ただ、四人は立ち上がった。


 砂を払い、荷物を背負う。


 帰る道へ向かう。


 振り返ると、父母ヶ浜は月明かりの下で静かに横たわっていた。


 昼間、空を映した浜は、今度は星を映している。


 まるで海そのものが、夜空を抱いているようだった。


 蒼真は最後に一度だけ振り返った。


 「またね。」


 小さな声だった。


 けれど、その言葉は確かに海へ届いた。


 瀬戸内の波が、一度だけ砂浜へ寄せる。


 そして静かに、戻っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ