第九話 夕凪の約束
夕日が沈んだあとも、四人はすぐには帰らなかった。
浜辺には、まだ薄い茜色が残っている。
空の高いところから、少しずつ青が深くなっていく。
さっきまで鏡のように空を映していた潮だまりも、もう空の色と海の色の境目が分からなくなっていた。
風は、止まっていた。
波も静かだった。
瀬戸内の海が、眠りにつく前のように穏やかだった。
「……夕凪って、こういうことなんだね」
澪が小さく言った。
蒼真は答えず、ただ海を見つめていた。
昼間の賑わいはもうない。
遠くに数人の人影があるだけ。
子どもたちの声も聞こえなくなり、砂浜には波の音だけが残っている。
寄せて。
返して。
また寄せる。
その繰り返し。
◇
陸が砂浜へ腰を下ろした。
「最初に海を渡ったときってさ。」
「こんなに静かじゃなかったよね」
蒼真も隣へ座る。
「ああ。」
潮がその後ろへ腰を下ろした。
「いろんなことがあったもんね。」
澪も膝を抱える。
誰も、最初から話そうとはしなかった。
島で出会った人。
祭り。
神社。
海。
山。
火を守る人。
旅の途中でもらった食べ物。
名前も知らない人からかけてもらった言葉。
思い出そうとしなくても、次々と浮かんでくる。
◇
蒼真は、旅日記を膝の上に置いた。
ずいぶん厚くなっている。
最初の頃は、まだ真っ白なページが多かった。
今では、ところどころ紙が膨らんでいる。
挟み込んだ葉。
小さな紙片。
祭りでもらった札。
誰かが描いてくれた絵。
旅の途中で拾ったもの。
ページをめくるたび、時間が戻ってくる。
「これ。」
澪が覗き込む。
「最初の島のときだ。」
「懐かしい。」
陸も笑った。
「まだ蒼真、ずっと地図ばっかり見てたよな。」
「仕方ないだろ。」
「道、分からなかったんだから。」
「今だって迷うけどね。」
潮が笑う。
四人の笑い声が、静かな浜辺へ小さく広がった。
そして、すぐに夜の中へ溶けていった。
◇
しばらくして、蒼真が言った。
「……旅って、終わるのかな。」
誰もすぐには答えなかった。
海の向こうに、一つだけ灯りが見える。
船だろうか。
ゆっくりと移動している。
タケルがその灯りを見ながら言った。
「道が終われば、旅は終わる。」
「だが。」
「旅で得たものまで消えるわけではない。」
蒼真は黙って聞いている。
「人は歩いた場所を忘れることがある。」
「だが、その場所で出会った人の言葉は、ふとした瞬間に蘇る。」
「風の匂いを嗅いだとき。」
「夕焼けを見たとき。」
「誰かから優しくされたとき。」
タケルは微笑んだ。
「そういうとき、旅はまた始まる。」
◇
澪が海を見ながら呟く。
「じゃあ、旅って……。」
「帰ってからも続くんだね。」
「ああ。」
タケルは頷いた。
「心の中で。」
その言葉を聞いて、蒼真はしばらく黙っていた。
やがて旅日記を開く。
今度は、いつものように言葉を探さなかった。
浮かんだままを書いた。
> 『今日、旅が終わることを少し寂しいと思った。』
そこで一度、ペンを止める。
海を見る。
暗くなった浜辺。
遠くの灯り。
隣にいる三人。
そして、少し離れたところで海を眺めるタケル。
蒼真は続けた。
> 『でも、終わるからこそ、また来たいと思えるのかもしれない。』
最後に、一行。
> 『いつか、またこの海へ。』
◇
「それ、約束?」
澪が尋ねた。
蒼真は少し笑った。
「うん。」
「じゃあ、私も。」
澪が言う。
陸も続いた。
「俺も。」
潮も笑う。
「もちろん。」
四人は海を見つめたまま、静かに頷いた。
大げさな約束ではない。
何年後になるかも分からない。
本当に戻ってこられるかも分からない。
それでも。
また、この海を見よう。
それだけでよかった。
◇
タケルは少し離れたところで、その様子を見ていた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
「約束というものは、不思議だな。」
蒼真が振り返る。
「何が?」
「まだ来ていない未来を、今の心で大切にする。」
「だから、人は約束をする。」
澪が笑う。
「タケルも約束する?」
「私か?」
「うん。」
タケルは少し考えた。
そして、海へ向かって静かに言った。
「では。」
「皆がいつか、この海へ戻ってきたとき。」
「私も、ここにいよう。」
蒼真が笑った。
「ずっと?」
「神だからな。」
「そこは便利なんだね。」
四人の笑い声が、また浜辺に響いた。
◇
夜空には、星が少しずつ増えていた。
海の向こうから、涼しい風が吹き始める。
夕凪が終わったのだ。
波が、少しだけ大きくなる。
砂浜へ寄せた水が、昼間の足跡を一つずつ消していく。
蒼真はその様子を見つめていた。
「足跡、消えちゃうね。」
陸が言った。
「うん。」
蒼真は笑う。
「でも、また歩けばいい。」
その言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ、四人は立ち上がった。
砂を払い、荷物を背負う。
帰る道へ向かう。
振り返ると、父母ヶ浜は月明かりの下で静かに横たわっていた。
昼間、空を映した浜は、今度は星を映している。
まるで海そのものが、夜空を抱いているようだった。
蒼真は最後に一度だけ振り返った。
「またね。」
小さな声だった。
けれど、その言葉は確かに海へ届いた。
瀬戸内の波が、一度だけ砂浜へ寄せる。
そして静かに、戻っていった。




