第八話 空を映す浜
西へ、西へ。
夏の午後の風を受けながら、四人は海沿いの道を歩いていた。
潮の香りが少しずつ濃くなる。
どこからか波の音も聞こえ始めた。
やがて防風林が途切れる。
その先に広がっていた景色に、四人は思わず足を止めた。
「……きれい。」
澪が小さく息をのむ。
目の前に広がるのは、穏やかな浜辺。
波はほとんど立たず、風だけが海面をやさしく撫でている。
遠くには紫雲出山の稜線が霞み、その向こうで夏の雲がゆっくりと流れていた。
「ここが、父母ヶ浜。」
蒼真は静かにつぶやく。
タケルはうなずいた。
「昔から、この浜は空を映す浜と呼ばれてきた。」
「潮が引き、風が静まるひとときだけ。」
「海は鏡になる。」
◇
浜辺では、地元の人たちが砂浜を歩いていた。
小さな子どもが裸足で走り回り、その後を父親が笑いながら追いかける。
犬を散歩させる老夫婦。
貝殻を拾う少女。
誰も急いでいない。
時間までも、波に合わせてゆっくり流れているようだった。
澪がしゃがみ込み、一枚の貝殻を拾う。
「見て。」
「桜みたいな色。」
薄い桃色をした小さな二枚貝。
陽の光を受けると、内側が虹色にきらめいた。
「海は、同じものを二つと作らない。」
タケルが穏やかに言う。
「人もまた、そうだ。」
◇
浜の端には、小さな木造の休憩所があった。
縁台に腰掛けていた一人の老人が、四人へ手を振る。
「夕日を待っとるんか。」
「はい。」
蒼真が答える。
老人はうれしそうに笑った。
「ほんなら、今日はええ日や。」
「昼から風が弱うなっとる。」
「鏡になるぞ。」
「鏡?」
潮が首をかしげる。
老人は砂浜を指さした。
「夕方にな。」
「潮が引いて、水が薄う残る。」
「風が止まる。」
「その時だけ、空が海へ降りてくるんや。」
◇
四人は浜辺を歩いた。
波打ち際には、小さなカニが横歩きし、白いサギがじっと海を見つめている。
足跡は波が来るたびに消え、また新しく刻まれる。
蒼真はその跡を見つめながら言った。
「歩いた跡って、すぐ消えるね。」
タケルは静かに微笑む。
「跡は消えても。」
「歩いたことは消えぬ。」
「旅とは、そういうものだ。」
◇
時間はゆっくり流れた。
西の空が少しずつ黄金色へ染まる。
子どもたちの笑い声も、いつしか静かになっていく。
風が止んだ。
老人が小さく言う。
「……今や。」
四人は浜辺へ目を向けた。
そこには。
もう海ではなかった。
薄く残った潮だまりが、一枚の鏡になっていた。
雲も。
夕日も。
青から橙へ変わる空も。
すべてが足元に映っている。
澪は息をのむ。
「空が……。」
「海にある。」
誰も言葉を続けられなかった。
ただ、その景色を見つめる。
それだけで十分だった。
◇
蒼真は、そっと潮だまりへ近づく。
映るのは夕焼けだけではない。
自分たち四人の姿も、空と並んで映っていた。
「不思議だね。」
「空を見ているのに、自分も見える。」
タケルは穏やかにうなずく。
「だから、この浜は人の心も映すのだ。」
「空だけではない。」
「今日まで歩いてきた時間も。」
「出会った人々も。」
「すべて、この一枚の鏡へ映してくれる。」
◇
やがて夕日は海へ沈み始めた。
空は茜色から紫色へ。
鏡の海も、同じ色へ染まっていく。
蒼真は旅日記を開いた。
静かに、一行を書き記す。
> 『鏡は、顔を映すものだと思っていた。』
少しだけ空を見上げる。
そして、続けた。
> 『けれど、この浜は、歩いてきた心まで映してくれる。』
ページを閉じる。
潮風がそっと吹き、旅日記の表紙を優しく撫でた。
その風は、まるで瀬戸内そのものが、
「よくここまで歩いてきたね」
と語りかけてくれているようだった。




