第七話 風を渡す人
こんぴらさんの門前町を離れるころには、夏の陽射しはすっかり高くなっていた。
石畳はやがて舗装された道へ変わり、町並みも少しずつ静かになっていく。
遠くには田んぼが広がり、稲の葉が風を受けて一斉に揺れていた。
緑の波が、空の青を映しながらどこまでも続いている。
「瀬戸内って、海のイメージが強かったけど。」
澪が田園を眺めながら言う。
「こんな景色もあるんだね。」
タケルは頷いた。
「海があるから、山がある。」
「山があるから、水が流れる。」
「その水が、この田を育てている。」
蒼真は風に揺れる稲を見つめた。
島で見た海も、美しかった。
けれど、その海を支えているのは、こうした山や田んぼなのだと気づく。
◇
昼近くになり、小さな無人駅の前へ出た。
木造の駅舎。
ホームにはベンチが二つだけ。
蝉の声だけが響き、列車の姿はまだない。
駅舎の軒先では、一人の少年がしゃがみ込み、困ったような顔をしていた。
小学五年生くらいだろうか。
自転車を横倒しにし、前輪をじっと見つめている。
「どうしたの?」
潮が声をかける。
少年は少し恥ずかしそうに答えた。
「チェーンが外れちゃって……。」
「直せなくて。」
陸が自転車を起こし、チェーンを見た。
「大丈夫。」
「ちょっと貸して。」
蒼真も一緒にしゃがみ込む。
昔、父親に教えてもらったことを思い出しながら、二人でチェーンを元の位置へ戻していく。
油で少し手は汚れたが、それほど時間はかからなかった。
「よし。」
ペダルを回す。
チェーンは静かに動き始めた。
「すごい!」
少年の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
◇
少年は鞄の中を探り、小さな包みを取り出した。
「これ、お礼です。」
中には、おばあちゃんが作ったという小さな梅干しのおにぎりが二つ入っていた。
蒼真は首を横に振る。
「気持ちだけで十分だよ。」
すると少年も首を振った。
「でも。」
「おばあちゃんが、『助けてもらったら、お返しじゃなくて、おすそ分けをしなさい』って。」
その言葉に、四人は顔を見合わせた。
タケルが静かに微笑む。
「よい言葉だ。」
蒼真は包みを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう。」
「大切にいただくね。」
少年は照れくさそうに笑うと、自転車へまたがった。
「じゃあ!」
「気をつけて旅してください!」
夏の日差しの中を、軽やかに走り去っていく。
◇
駅前の木陰で、おにぎりを分け合う。
梅の酸味が、歩き疲れた体へ優しく染みわたる。
「おいしい。」
澪が目を細める。
「人からいただくものって、どうしてこんなに温かいんだろう。」
タケルは空を見上げた。
白い雲がゆっくりと流れていく。
「神代では。」
「風には名前があると言われていた。」
「山から海へ吹く風。」
「海から里へ吹く風。」
「そして、人から人へ渡る風。」
「人から人へ?」
潮が聞き返す。
「親切は、風に似ている。」
タケルは静かに答えた。
「姿は見えぬ。」
「だが、一人から一人へ渡り、いつしか遠くまで届いていく。」
蒼真は少年の走っていった道を見つめた。
金刀比羅宮で受け取った「ありがとう」。
それが今、別の形になって自分たちへ返ってきた気がした。
◇
午後の風が吹く。
田んぼが一斉に揺れ、その先には青い瀬戸内海がきらりと光る。
蒼真は旅日記を開いた。
静かに一行を書き留める。
> 『親切は、お返しを求めるものではない。』
少し考え、続けて書く。
> 『風のように誰かへ渡り、いつかまた、どこかで自分のもとへ帰ってくる。』
ページを閉じると、ちょうど一両編成の列車がホームへ滑り込んできた。
ドアが開き、降りてきたのは旅人が一人だけ。
白い帽子をかぶった年配の女性だった。
その手には、小さなスケッチブック。
女性は駅前の風景を見回すと、にこりと微笑み、海の見える方角へゆっくり歩き始めた。
タケルはその背中を見送り、小さくつぶやく。
「西へ向かう者が、また一人。」
蒼真たちも歩き出す。
その先には、夕日が「天空の鏡」を映し出す浜辺――父母ヶ浜が待っていた。




