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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第六話 ありがとうを結ぶ場所

社殿の前には、朝の光が静かに降り注いでいた。


 参拝を終えた人々は、誰も急がず、石畳の脇へ身を寄せて景色を眺めている。


 遠くには、青く穏やかな瀬戸内海。


 島々は霞の向こうに浮かび、その間を一隻の貨物船がゆっくりと進んでいた。


 蒼真は、その海を見つめた。


 「あそこから来たんだね。」


 澪も同じ方向を見つめる。


 「向島も。」


 「因島も。」


 「生口島も。」


 「大三島も。」


 「みんな、あの海の向こう。」


 旅を振り返るように、一つひとつ島の名前を口にする。


 それだけで、潮の香りや人々の笑顔が胸によみがえってきた。


 ◇


 社殿の前で、一人の老夫婦が深く頭を下げていた。


 願い事を唱える様子はない。


 ただ、静かに手を合わせている。


 やがて二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 その表情は、何かを「願う」人ではなく、何かを「受け取った」人の顔だった。


 蒼真は思わずつぶやく。


 「何をお祈りしていたんだろう。」


 タケルは首を横に振った。


 「聞かぬほうがよい。」


 「祈りは、人の心の中にあるものだ。」


 「言葉にしなくても、神々には届いている。」


 ◇


 蒼真たちも静かに手を清める。


 柄杓から落ちる水が、夏の日差しを受けて小さく輝いた。


 四人は並んで社殿の前へ立つ。


 鈴を鳴らす。


 澄んだ音が境内へ広がり、木々の葉を揺らした。


 深く一礼する。


 誰も口にはしない。


 けれど、それぞれの胸には同じ言葉が浮かんでいた。


 ――ありがとうございます。


 旅の始まりへ。


 海へ。


 風へ。


 出会った人々へ。


 そして、今日まで無事に歩いてこられたことへ。


 ◇


 静かに顔を上げると、一枚の木の葉が風に乗って舞い降りた。


 くるくると回りながら、蒼真の足元へ落ちる。


 タケルはその葉を見つめ、微笑んだ。


 「神代ではな。」


 「風に乗って落ちる葉は、神々からの返事だと言われていた。」


 潮が目を丸くする。


 「返事?」


 「ああ。」


 「『ちゃんと届いている』という印だ。」


 澪は足元の葉をそっと拾い上げた。


 葉脈の一本一本が朝日に透けている。


 「本当かどうかは分からない。」


 「でも、そう思うと優しいね。」


 タケルは静かに頷いた。


 「神話とは、人を安心させるために生まれた物語でもある。」


 ◇


 社殿をあとにし、境内をゆっくり歩く。


 石畳の脇には、樹齢何百年もの楠が枝を広げていた。


 その幹にそっと手を添える。


 ざらりとした樹皮の感触。


 長い年月を生きてきた命のぬくもりが、手のひらへ伝わる気がした。


 陸が見上げる。


 「この木も。」


 「たくさんの旅人を見てきたんだね。」


 「そうだろうな。」


 蒼真も空を見上げる。


 春も。


 夏も。


 秋も。


 冬も。


 数え切れない「行ってきます」と「ただいま」を、この木は黙って見守ってきたのだ。


 ◇


 帰りの石段は、不思議と軽かった。


 登るときには長く感じた道も、今は景色を眺める余裕がある。


 途中、小さな女の子が一輪の花を手に、お母さんへ言った。


 「また来ようね。」


 「うん。」


 母親は笑って答える。


 「また一緒に来よう。」


 その何気ない約束が、蒼真の胸に残った。


 旅とは、終わるものではない。


 次の約束を胸にしまうものなのかもしれない。


 ◇


 石段を下りきったところで、朝に立ち寄った茶店のおばあさんが店先から手を振っていた。


 「おかえり。」


 その一言に、四人は思わず笑顔になる。


 「ただいま。」


 旅の途中なのに、「ただいま」と言える場所がある。


 それが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。


 おばあさんは湯呑みに冷たい麦茶を注ぎながら言った。


 「どうだった?」


 蒼真は少し考えてから答えた。


 「お願い事をする場所だと思っていました。」


 「でも違いました。」


 「ありがとうを伝える場所でした。」


 おばあさんは目を細める。


 「そう思えたなら、ええお参りやったね。」


 ◇


 旅立つ前、蒼真は旅日記を開いた。


 静かにペンを走らせる。


 > 『祈りは、未来を変える魔法ではなかった。』


 少し間を置き、もう一行。


 > 『今日まで歩いてこられたことに、静かに感謝する時間だった。』


 ページを閉じる。


 そのとき、山の上から風が吹き下りてきた。


 風鈴が涼やかに鳴る。


 榎の葉がさらさらと揺れる。


 そして、その風は四人の背中をやさしく押すように、西への道へ流れていった。


 次の町へ。


 次の出会いへ。


 瀬戸内の旅は、まだ静かに続いていく。

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