第五話 一段ずつ
茶店をあとにすると、道はゆるやかに賑わい始めた。
土産物屋の軒先には、丸い提灯が風に揺れている。
焼きたての煎餅の香ばしい匂い。
甘く煮た醤油豆の香り。
どこからか聞こえてくる笑い声。
その先に、大きな石の鳥居が姿を現した。
灰色の御影石は朝日に照らされ、静かに空へ向かって立っている。
蒼真は思わず足を止めた。
「ここが……。」
タケルは鳥居を見上げ、ゆっくりとうなずく。
「海の神を祀る社。」
「古くから船乗りや漁師たちが、航海の無事を願ってきた場所だ。」
その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
◇
鳥居をくぐると、空気が少し変わった。
町の賑わいはそのままなのに、不思議と足音まで静かになる。
最初の石段を前に、澪が空を見上げた。
「ずいぶん続いてるね。」
「全部で何段あるんだろう。」
陸が笑う。
「数え始めたら、途中で分からなくなりそう。」
「だったら。」
潮が石段を見つめながら言う。
「今日は数えないで登ろうよ。」
「一段ずつ。」
その言葉に、タケルが穏やかに微笑んだ。
「それがよい。」
「祈りとは、終わりを急ぐものではない。」
「今、踏みしめる一歩を大切にすることだ。」
◇
石段の両脇には、大きな楠や杉が枝を広げている。
木漏れ日が石畳に丸い模様を描き、風が吹くたびに葉がささやいた。
途中、小さな店先から甘い香りが漂ってくる。
「いらっしゃい。」
店の前には、白い暖簾。
硝子瓶の中には、色とりどりの飴が並んでいた。
「こんぴらさんの飴ですよ。」
店の女性がにこやかに差し出す。
小さな試食を口へ入れると、やさしい甘さが広がった。
「歩いていると、こういう甘さがうれしいね。」
澪が笑う。
女性はうなずいた。
「昔から、お参りの人の楽しみなんですよ。」
「ゆっくり登ってくださいね。」
◇
さらに石段を登る。
息は少しずつ弾んでくる。
それでも、不思議と苦しくはない。
立ち止まれば、木々の間から町並みが少しずつ広がっていく。
瓦屋根。
遠くに光る瀬戸内海。
港へ出入りする小さな船。
「さっきまで、あそこを歩いていたんだ。」
蒼真が静かにつぶやく。
旅は、歩いた分だけ景色が変わる。
それを実感する眺めだった。
◇
石段の途中で、小さな男の子が立ち止まっていた。
肩で息をしながら、お父さんの手をぎゅっと握っている。
「疲れた?」
父親が尋ねる。
男の子は少し考えてから笑った。
「ううん。」
「ちょっと休んでるだけ。」
その言葉に、周りの人たちから優しい笑いがこぼれる。
タケルはその親子を見送りながら言った。
「休むことも、歩くことの一つだ。」
蒼真は頷いた。
旅でも、人生でも。
止まることは、諦めることではない。
また歩き出すための時間なのだ。
◇
やがて、大きな社殿が姿を現した。
重厚な屋根。
白い幣が風に揺れ、鈴の音が静かに響いている。
参拝を終えた人たちは皆、どこか穏やかな表情をしていた。
誰かが願い事を話すわけではない。
けれど、その静けさだけで、この場所が長い年月、人々の祈りを受け止めてきたことが伝わってくる。
蒼真たちは手水舎の前で足を止めた。
柄杓に水をすくう。
澄んだ水が手のひらを流れ、歩いてきた熱をやさしく冷ましていく。
タケルは静かに社殿を見つめた。
「海へ出る者は、風を選べぬ。」
「だからこそ、人は祈る。」
「無事に帰れますように、と。」
蒼真は瀬戸内の海を思い浮かべた。
これまで出会ってきた漁師たち。
島で火を守る結菜。
送り出してくれた人々。
その暮らしは、いつも海とともにあった。
この社には、何百年もの「行ってきます」と「ただいま」が積み重なっているのだろう。
◇
蒼真は旅日記を開く。
社殿の前で、静かに一行を書き記す。
> 『祈りは、願いを空へ届けるためだけにあるのではない。』
少し風が吹き、ページがゆっくりと揺れた。
もう一行、書き添える。
> 『帰りを待つ人がいる。そのことを思い出す場所でもある。』
旅日記を閉じると、境内のどこかで鈴の音が澄んだ空へ響いた。
その音は瀬戸内の風に乗り、遠い海まで届いていくようだった。




