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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第五話 一段ずつ

茶店をあとにすると、道はゆるやかに賑わい始めた。


 土産物屋の軒先には、丸い提灯が風に揺れている。


 焼きたての煎餅の香ばしい匂い。


 甘く煮た醤油豆の香り。


 どこからか聞こえてくる笑い声。


 その先に、大きな石の鳥居が姿を現した。


 灰色の御影石は朝日に照らされ、静かに空へ向かって立っている。


 蒼真は思わず足を止めた。


 「ここが……。」


 タケルは鳥居を見上げ、ゆっくりとうなずく。


 「海の神を祀る社。」


 「古くから船乗りや漁師たちが、航海の無事を願ってきた場所だ。」


 その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。


 ◇


 鳥居をくぐると、空気が少し変わった。


 町の賑わいはそのままなのに、不思議と足音まで静かになる。


 最初の石段を前に、澪が空を見上げた。


 「ずいぶん続いてるね。」


 「全部で何段あるんだろう。」


 陸が笑う。


 「数え始めたら、途中で分からなくなりそう。」


 「だったら。」


 潮が石段を見つめながら言う。


 「今日は数えないで登ろうよ。」


 「一段ずつ。」


 その言葉に、タケルが穏やかに微笑んだ。


 「それがよい。」


 「祈りとは、終わりを急ぐものではない。」


 「今、踏みしめる一歩を大切にすることだ。」


 ◇


 石段の両脇には、大きな楠や杉が枝を広げている。


 木漏れ日が石畳に丸い模様を描き、風が吹くたびに葉がささやいた。


 途中、小さな店先から甘い香りが漂ってくる。


 「いらっしゃい。」


 店の前には、白い暖簾。


 硝子瓶の中には、色とりどりの飴が並んでいた。


 「こんぴらさんの飴ですよ。」


 店の女性がにこやかに差し出す。


 小さな試食を口へ入れると、やさしい甘さが広がった。


 「歩いていると、こういう甘さがうれしいね。」


 澪が笑う。


 女性はうなずいた。


 「昔から、お参りの人の楽しみなんですよ。」


 「ゆっくり登ってくださいね。」


 ◇


 さらに石段を登る。


 息は少しずつ弾んでくる。


 それでも、不思議と苦しくはない。


 立ち止まれば、木々の間から町並みが少しずつ広がっていく。


 瓦屋根。


 遠くに光る瀬戸内海。


 港へ出入りする小さな船。


 「さっきまで、あそこを歩いていたんだ。」


 蒼真が静かにつぶやく。


 旅は、歩いた分だけ景色が変わる。


 それを実感する眺めだった。


 ◇


 石段の途中で、小さな男の子が立ち止まっていた。


 肩で息をしながら、お父さんの手をぎゅっと握っている。


 「疲れた?」


 父親が尋ねる。


 男の子は少し考えてから笑った。


 「ううん。」


 「ちょっと休んでるだけ。」


 その言葉に、周りの人たちから優しい笑いがこぼれる。


 タケルはその親子を見送りながら言った。


 「休むことも、歩くことの一つだ。」


 蒼真は頷いた。


 旅でも、人生でも。


 止まることは、諦めることではない。


 また歩き出すための時間なのだ。


 ◇


 やがて、大きな社殿が姿を現した。


 重厚な屋根。


 白い幣が風に揺れ、鈴の音が静かに響いている。


 参拝を終えた人たちは皆、どこか穏やかな表情をしていた。


 誰かが願い事を話すわけではない。


 けれど、その静けさだけで、この場所が長い年月、人々の祈りを受け止めてきたことが伝わってくる。


 蒼真たちは手水舎の前で足を止めた。


 柄杓に水をすくう。


 澄んだ水が手のひらを流れ、歩いてきた熱をやさしく冷ましていく。


 タケルは静かに社殿を見つめた。


 「海へ出る者は、風を選べぬ。」


 「だからこそ、人は祈る。」


 「無事に帰れますように、と。」


 蒼真は瀬戸内の海を思い浮かべた。


 これまで出会ってきた漁師たち。


 島で火を守る結菜。


 送り出してくれた人々。


 その暮らしは、いつも海とともにあった。


 この社には、何百年もの「行ってきます」と「ただいま」が積み重なっているのだろう。


 ◇


 蒼真は旅日記を開く。


 社殿の前で、静かに一行を書き記す。


 > 『祈りは、願いを空へ届けるためだけにあるのではない。』


 少し風が吹き、ページがゆっくりと揺れた。


 もう一行、書き添える。


 > 『帰りを待つ人がいる。そのことを思い出す場所でもある。』


 旅日記を閉じると、境内のどこかで鈴の音が澄んだ空へ響いた。


 その音は瀬戸内の風に乗り、遠い海まで届いていくようだった。

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