第四話 木陰の茶店
こんぴらさんへ続く道は、ゆるやかな上り坂になっていた。
道の両側には古い町家が並び、格子戸の向こうからは味噌を煮る香りや、洗い立ての布を干す匂いが漂ってくる。
軒先には風鈴。
風が吹くたびに、澄んだ音色が通りを渡っていった。
「なんだか時間がゆっくり流れてるね。」
澪が歩幅を少し緩める。
蒼真も頷いた。
「急ぎたくなくなる町だ。」
◇
坂道の途中、大きな榎の木が一本立っていた。
枝は大きく四方へ広がり、真夏の日差しをやわらかく受け止めている。
その木陰に、小さな茶店があった。
木の看板には、墨でただ一言。
「ひとやすみ」
潮が思わず笑う。
「お店の名前?」
「そのまんまだ。」
陸も笑った。
暖簾をくぐると、風鈴がちりんと鳴る。
店の中は木の香りに包まれ、古い柱には長い年月が刻まれていた。
窓から吹き込む風が心地よい。
「いらっしゃい。」
奥から現れたのは、小柄なおばあさんだった。
白い割烹着に、やさしい笑顔。
「暑かったでしょう。」
「まずは、お茶でも。」
湯のみへ注がれた冷たい麦茶には、氷が一つだけ浮かんでいた。
その音が、からん、と小さく鳴る。
◇
「歩き旅かい?」
「はい。」
蒼真が答える。
「瀬戸内を巡っています。」
「それはええこと。」
おばあさんは嬉しそうに頷いた。
「昔は、この道も旅人でいっぱいだったんよ。」
「金毘羅さんへ向かう人。」
「商いへ行く人。」
「お遍路さん。」
「みんな、この木の下で一息ついていった。」
おばあさんは榎の木を見上げる。
「この木は、百年以上ここで旅人を見とるんよ。」
◇
そのとき、店の隅に古い木箱が置かれているのが目に入った。
蓋には小さく書かれている。
『旅帳』
「見てもいいですか?」
「もちろん。」
蒼真が蓋を開けると、中には何冊もの大学ノートや和綴じ帳が大切に納められていた。
どれも旅人が自由に書き残したものらしい。
「二十年以上続いとるんよ。」
「旅人が、次の旅人へ言葉を残してくれる。」
蒼真は一冊をそっと開いた。
> 『足が痛くても、笑ってくれる人がいた。』
次のページ。
> 『雨の日にいただいた一杯のお茶は、一生忘れません。』
また次のページ。
> 『また帰ってきます。』
短い言葉ばかり。
それなのに、一つひとつが、その人だけの旅を映していた。
◇
「蒼真。」
澪が小さく呼ぶ。
「あなたも書いてみたら?」
蒼真は少し考えたあと、机に置かれた万年筆を手に取った。
ゆっくりと紙へ向かう。
> 『旅をしていると、目的地よりも、人の優しさのほうが心に残る日があります。』
少し間を置き、続ける。
> 『この木陰でいただいた一杯の麦茶も、その一つです。ありがとうございました。』
最後に日付だけを書き添える。
名前は書かなかった。
旅人だから。
それで十分だと思った。
◇
おばあさんは旅帳を閉じると、静かに微笑んだ。
「次に来た人が読むね。」
「旅は、一人で歩くようで。」
「こうして、知らない誰かにつながっていくんよ。」
タケルはその言葉に深く頷いた。
「言葉もまた、お接待なのだな。」
「そうかもしれんねぇ。」
おばあさんは嬉しそうに笑った。
◇
店を出る頃には、少しだけ雲が流れ、風が涼しくなっていた。
榎の葉がさらさらと揺れる。
四人は振り返り、深く一礼した。
「ありがとうございました。」
「いってらっしゃい。」
おばあさんは手を振る。
「こんぴらさんは、急いで登らんでええよ。」
「石段も、人と同じ。」
「一段ずつやけん。」
◇
茶店を離れると、道は再びゆるやかな上り坂になる。
木々の間から、大きな石の鳥居が少しだけ姿を見せていた。
その向こうには、長く続く石段。
蒼真は旅日記を開き、新しいページへ書き記す。
> 『道の途中にある「ひと休み」は、歩みを止めるためではない。』
そして、もう一行。
> 『また前を向いて歩くためにある。』
旅日記を閉じる。
四人は顔を見合わせ、小さく笑った。
誰からともなく、石段へ向かって歩き始める。
その一歩は急がず、けれど迷いもなかった。




