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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第四話 木陰の茶店

こんぴらさんへ続く道は、ゆるやかな上り坂になっていた。


 道の両側には古い町家が並び、格子戸の向こうからは味噌を煮る香りや、洗い立ての布を干す匂いが漂ってくる。


 軒先には風鈴。


 風が吹くたびに、澄んだ音色が通りを渡っていった。


 「なんだか時間がゆっくり流れてるね。」


 澪が歩幅を少し緩める。


 蒼真も頷いた。


 「急ぎたくなくなる町だ。」


 ◇


 坂道の途中、大きな榎の木が一本立っていた。


 枝は大きく四方へ広がり、真夏の日差しをやわらかく受け止めている。


 その木陰に、小さな茶店があった。


 木の看板には、墨でただ一言。


 「ひとやすみ」


 潮が思わず笑う。


 「お店の名前?」


 「そのまんまだ。」


 陸も笑った。


 暖簾をくぐると、風鈴がちりんと鳴る。


 店の中は木の香りに包まれ、古い柱には長い年月が刻まれていた。


 窓から吹き込む風が心地よい。


 「いらっしゃい。」


 奥から現れたのは、小柄なおばあさんだった。


 白い割烹着に、やさしい笑顔。


 「暑かったでしょう。」


 「まずは、お茶でも。」


 湯のみへ注がれた冷たい麦茶には、氷が一つだけ浮かんでいた。


 その音が、からん、と小さく鳴る。


 ◇


 「歩き旅かい?」


 「はい。」


 蒼真が答える。


 「瀬戸内を巡っています。」


 「それはええこと。」


 おばあさんは嬉しそうに頷いた。


 「昔は、この道も旅人でいっぱいだったんよ。」


 「金毘羅さんへ向かう人。」


 「商いへ行く人。」


 「お遍路さん。」


 「みんな、この木の下で一息ついていった。」


 おばあさんは榎の木を見上げる。


 「この木は、百年以上ここで旅人を見とるんよ。」


 ◇


 そのとき、店の隅に古い木箱が置かれているのが目に入った。


 蓋には小さく書かれている。


 『旅帳』


 「見てもいいですか?」


 「もちろん。」


 蒼真が蓋を開けると、中には何冊もの大学ノートや和綴じ帳が大切に納められていた。


 どれも旅人が自由に書き残したものらしい。


 「二十年以上続いとるんよ。」


 「旅人が、次の旅人へ言葉を残してくれる。」


 蒼真は一冊をそっと開いた。


 > 『足が痛くても、笑ってくれる人がいた。』


 次のページ。


 > 『雨の日にいただいた一杯のお茶は、一生忘れません。』


 また次のページ。


 > 『また帰ってきます。』


 短い言葉ばかり。


 それなのに、一つひとつが、その人だけの旅を映していた。


 ◇


 「蒼真。」


 澪が小さく呼ぶ。


 「あなたも書いてみたら?」


 蒼真は少し考えたあと、机に置かれた万年筆を手に取った。


 ゆっくりと紙へ向かう。


 > 『旅をしていると、目的地よりも、人の優しさのほうが心に残る日があります。』


 少し間を置き、続ける。


 > 『この木陰でいただいた一杯の麦茶も、その一つです。ありがとうございました。』


 最後に日付だけを書き添える。


 名前は書かなかった。


 旅人だから。


 それで十分だと思った。


 ◇


 おばあさんは旅帳を閉じると、静かに微笑んだ。


 「次に来た人が読むね。」


 「旅は、一人で歩くようで。」


 「こうして、知らない誰かにつながっていくんよ。」


 タケルはその言葉に深く頷いた。


 「言葉もまた、お接待なのだな。」


 「そうかもしれんねぇ。」


 おばあさんは嬉しそうに笑った。


 ◇


 店を出る頃には、少しだけ雲が流れ、風が涼しくなっていた。


 榎の葉がさらさらと揺れる。


 四人は振り返り、深く一礼した。


 「ありがとうございました。」


 「いってらっしゃい。」


 おばあさんは手を振る。


 「こんぴらさんは、急いで登らんでええよ。」


 「石段も、人と同じ。」


 「一段ずつやけん。」


 ◇


 茶店を離れると、道は再びゆるやかな上り坂になる。


 木々の間から、大きな石の鳥居が少しだけ姿を見せていた。


 その向こうには、長く続く石段。


 蒼真は旅日記を開き、新しいページへ書き記す。


 > 『道の途中にある「ひと休み」は、歩みを止めるためではない。』


 そして、もう一行。


 > 『また前を向いて歩くためにある。』


 旅日記を閉じる。


 四人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 誰からともなく、石段へ向かって歩き始める。


 その一歩は急がず、けれど迷いもなかった。

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