第三話 道しるべ
朝の陽射しは、少しずつ強さを増していた。
それでも遍路道には、ところどころ木陰が続いている。
大きな楠。
枝を広げた欅。
風が葉を揺らすたび、木漏れ日が足元で静かに踊った。
「気持ちいいね。」
澪が空を見上げる。
蝉の声は賑やかなのに、不思議と暑さを忘れさせる風だった。
◇
道の脇に、小さな石柱が立っていた。
背丈ほどもない、古びた花崗岩。
表面は長い年月で丸くなり、文字もところどころ薄れている。
蒼真がしゃがみ込んだ。
「何て書いてあるんだろう。」
タケルが石柱に手を添える。
「昔の道しるべだ。」
そこには、
『右 こんぴら道』
と刻まれていた。
「昔は地図なんてない。」
「旅人は、こうした石の声を頼りに歩いた。」
陸が指先で文字をなぞる。
「何百年も前の人も、ここを歩いたんだね。」
「そうだ。」
「武士も。」
「商人も。」
「巡礼も。」
「名も残らぬ旅人も。」
「皆、この石に励まされながら歩いてきた。」
◇
しばらく歩くと、道端に小さなお堂が見えてきた。
木造の素朴なお堂。
軒先には風鈴が一つ。
涼やかな音を立てている。
お堂の前には、小さな花が供えられていた。
新しい水。
線香の香り。
誰かが今朝、お参りしたばかりなのだろう。
澪が手を合わせる。
潮も自然と頭を下げた。
蒼真は、お堂の隅に置かれた竹籠に気づく。
中には、小さな飴がいくつか入っていた。
横には手書きの札。
「どうぞ 道中お気をつけて」
思わず顔を見合わせる。
「これ……。」
「お接待だね。」
陸がそっと飴を一つ手に取る。
「一つだけいただこう。」
四人は手を合わせ、小さく礼をした。
誰が置いたのか分からない。
名前も書かれていない。
けれど、その優しさは確かにここにあった。
◇
さらに歩くと、小さな橋へ出た。
橋の下を流れる川は澄み切っていて、小魚が群れをなして泳いでいる。
欄干には、一人の老人が腰を掛けていた。
麦わら帽子をかぶり、釣り糸を静かに垂れている。
「釣れますか?」
蒼真が声を掛ける。
老人は笑った。
「今日は魚より、旅人のほうがよう釣れるな。」
その言葉に、みんなが笑う。
「歩きか。」
「はい。」
「ええ道やろ。」
老人は川を眺めながら言った。
「この道はな。」
「急ぐ人には長い。」
「立ち止まる人には短い。」
蒼真は少し首をかしげる。
「どういうことですか?」
老人は釣り竿を上げながら微笑んだ。
「急ぐ人は、目的地ばかり見る。」
「せやけん、なかなか着かん。」
「でも立ち止まる人は、花を見て。」
「鳥の声を聞いて。」
「人と話して。」
「気がついたら着いとる。」
「旅いうんは、そういうもんや。」
◇
タケルは橋の中央で立ち止まり、ゆっくり川を見下ろした。
水面には白い雲が映っている。
「神代の頃。」
「人は川を越えるたび、無事を祈った。」
「橋がなかった時代は、川一つ渡ることも命懸けだった。」
蒼真は橋の欄干へ手を置く。
何気なく渡っている橋にも、数え切れない人々の願いが積み重なっている。
そんな気がした。
◇
橋を渡り終えると、道端に一輪の白い百合が咲いていた。
風に揺れるその花を見つめながら、蒼真は旅日記を開く。
> 『道しるべは、石だけではない。』
少し考え、続けて書く。
> 『出会った人の言葉も、旅人を導く道しるべになる。』
ページを閉じる。
その時、遠くの森の向こうから、大きな屋根が少しだけ見えた。
「タケル。」
「あれは……。」
タケルは静かに微笑む。
「こんぴらさんだ。」
「海を見守り続けてきた祈りの山。」
夏空の下、その長い石段は、まだ木々の間に静かに隠れていた。
まるで、「急がずにおいで」と語りかけるように。




