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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第三話 道しるべ

朝の陽射しは、少しずつ強さを増していた。


 それでも遍路道には、ところどころ木陰が続いている。


 大きな楠。


 枝を広げた欅。


 風が葉を揺らすたび、木漏れ日が足元で静かに踊った。


 「気持ちいいね。」


 澪が空を見上げる。


 蝉の声は賑やかなのに、不思議と暑さを忘れさせる風だった。


 ◇


 道の脇に、小さな石柱が立っていた。


 背丈ほどもない、古びた花崗岩。


 表面は長い年月で丸くなり、文字もところどころ薄れている。


 蒼真がしゃがみ込んだ。


 「何て書いてあるんだろう。」


 タケルが石柱に手を添える。


 「昔の道しるべだ。」


 そこには、


 『右 こんぴら道』


 と刻まれていた。


 「昔は地図なんてない。」


 「旅人は、こうした石の声を頼りに歩いた。」


 陸が指先で文字をなぞる。


 「何百年も前の人も、ここを歩いたんだね。」


 「そうだ。」


 「武士も。」


 「商人も。」


 「巡礼も。」


 「名も残らぬ旅人も。」


 「皆、この石に励まされながら歩いてきた。」


 ◇


 しばらく歩くと、道端に小さなお堂が見えてきた。


 木造の素朴なお堂。


 軒先には風鈴が一つ。


 涼やかな音を立てている。


 お堂の前には、小さな花が供えられていた。


 新しい水。


 線香の香り。


 誰かが今朝、お参りしたばかりなのだろう。


 澪が手を合わせる。


 潮も自然と頭を下げた。


 蒼真は、お堂の隅に置かれた竹籠に気づく。


 中には、小さな飴がいくつか入っていた。


 横には手書きの札。


 「どうぞ 道中お気をつけて」


 思わず顔を見合わせる。


 「これ……。」


 「お接待だね。」


 陸がそっと飴を一つ手に取る。


 「一つだけいただこう。」


 四人は手を合わせ、小さく礼をした。


 誰が置いたのか分からない。


 名前も書かれていない。


 けれど、その優しさは確かにここにあった。


 ◇


 さらに歩くと、小さな橋へ出た。


 橋の下を流れる川は澄み切っていて、小魚が群れをなして泳いでいる。


 欄干には、一人の老人が腰を掛けていた。


 麦わら帽子をかぶり、釣り糸を静かに垂れている。


 「釣れますか?」


 蒼真が声を掛ける。


 老人は笑った。


 「今日は魚より、旅人のほうがよう釣れるな。」


 その言葉に、みんなが笑う。


 「歩きか。」


 「はい。」


 「ええ道やろ。」


 老人は川を眺めながら言った。


 「この道はな。」


 「急ぐ人には長い。」


 「立ち止まる人には短い。」


 蒼真は少し首をかしげる。


 「どういうことですか?」


 老人は釣り竿を上げながら微笑んだ。


 「急ぐ人は、目的地ばかり見る。」


 「せやけん、なかなか着かん。」


 「でも立ち止まる人は、花を見て。」


 「鳥の声を聞いて。」


 「人と話して。」


 「気がついたら着いとる。」


 「旅いうんは、そういうもんや。」


 ◇


 タケルは橋の中央で立ち止まり、ゆっくり川を見下ろした。


 水面には白い雲が映っている。


 「神代の頃。」


 「人は川を越えるたび、無事を祈った。」


 「橋がなかった時代は、川一つ渡ることも命懸けだった。」


 蒼真は橋の欄干へ手を置く。


 何気なく渡っている橋にも、数え切れない人々の願いが積み重なっている。


 そんな気がした。


 ◇


 橋を渡り終えると、道端に一輪の白い百合が咲いていた。


 風に揺れるその花を見つめながら、蒼真は旅日記を開く。


 > 『道しるべは、石だけではない。』


 少し考え、続けて書く。


 > 『出会った人の言葉も、旅人を導く道しるべになる。』


 ページを閉じる。


 その時、遠くの森の向こうから、大きな屋根が少しだけ見えた。


 「タケル。」


 「あれは……。」


 タケルは静かに微笑む。


 「こんぴらさんだ。」


 「海を見守り続けてきた祈りの山。」


 夏空の下、その長い石段は、まだ木々の間に静かに隠れていた。


 まるで、「急がずにおいで」と語りかけるように。

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