第二話 歩く祈り
白い菅笠が、朝日に照らされていた。
ゆっくりと。
一定の歩幅で。
金剛杖が地面を突くたび、
コツ……。
コツ……。
という乾いた音が、静かな道に響いている。
蒼真は、その後ろ姿をしばらく眺めていた。
「急がないんだね。」
タケルは穏やかに頷く。
「急ぐ旅もある。」
「だが、お遍路は歩くことそのものに意味がある。」
◇
四人も自然と同じ道を歩き始めた。
町外れへ向かう緩やかな坂道。
道端には百日紅が咲き、庭先では風鈴が涼やかな音を鳴らしている。
畑では農家の人が朝の水やりをしていた。
「おはようございます。」
白装束の旅人が頭を下げる。
「おはよう。」
畑の女性も笑顔で手を振った。
そのやり取りは、まるで昔からの知り合い同士のように自然だった。
蒼真は少し驚く。
「知り合いなんですか?」
女性は首を振る。
「初めて会った人よ。」
「でも、お遍路さんには『おはよう』って言いたくなるの。」
照れくさそうに笑いながら、畑で採れたばかりの小さなトマトを紙袋へ入れた。
「よかったら、皆さんもどうぞ。」
「ありがとうございます。」
澪が受け取ると、女性は優しく微笑んだ。
「暑いけん、水分もしっかり取るんよ。」
◇
少し先で、お遍路さんが木陰に腰を下ろした。
蒼真たちも近くのベンチへ座る。
旅人は水筒のお茶を一口飲み、四人へ柔らかく笑いかけた。
「皆さんも旅ですか。」
「はい。」
蒼真が答える。
「瀬戸内を歩いています。」
「それはいい旅ですね。」
旅人の声は穏やかで、どこか安心する響きがあった。
年の頃は六十代半ば。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれているが、その目は少年のように澄んでいた。
◇
「お遍路さんなんですか?」
陸が尋ねる。
「ええ。」
旅人は頷く。
「今回で二巡目です。」
「二回も?」
潮が驚く。
「お願い事があるんですか?」
旅人は少し考えてから首を横に振った。
「最初は、ありました。」
「でも、今は違います。」
蒼真は静かに耳を傾ける。
「妻が亡くなって十年になります。」
旅人は遠くの空を見上げた。
「最初のお遍路は、悲しくて歩いていました。」
「どうして自分だけ残されたんだろう、と。」
風が吹き、百日紅の花びらが一枚、足元へ舞い落ちる。
「でも歩いているうちに、いろんな人に声を掛けてもらいました。」
「水をいただいて。」
「おにぎりをいただいて。」
「『お気をつけて』と言ってもらって。」
旅人は少し笑う。
「気づいたんです。」
「私は一人で歩いていると思っていたけれど、たくさんの人に支えられて歩いていたんだと。」
◇
タケルは静かに目を閉じて、その話を聞いていた。
旅人は続ける。
「だから二回目は、お礼を言いながら歩こうと思ったんです。」
「お寺だけじゃありません。」
「道にも。」
「風にも。」
「出会う人にも。」
「ありがとう、って。」
澪の瞳が少し潤む。
「それも、お遍路なんですね。」
「ええ。」
旅人は穏やかに頷いた。
「祈るというのは、お願いすることだけじゃない。」
「感謝することも、祈りなんですよ。」
◇
しばらく誰も話さなかった。
蝉の声だけが、夏空へ響いている。
やがて旅人は立ち上がり、菅笠を軽く直した。
「それでは。」
「よい旅を。」
蒼真たちも立ち上がる。
「ありがとうございました。」
旅人は笑顔で金剛杖を手に取ると、また一定の歩幅で歩き始めた。
コツ……。
コツ……。
その音は急ぐことなく、遠ざかっていく。
蒼真は、その背中が見えなくなるまで見送っていた。
「タケル。」
「歩くって、不思議だね。」
タケルは静かに微笑む。
「ああ。」
「足は前へ進む。」
「だが、人の心は、ときに過去へ戻り、ときに未来へ向かう。」
「その両方を抱えて歩けるのが、人というものだ。」
蒼真は旅日記を開く。
新しいページに、ゆっくりと書き留める。
> 『祈りは、神様だけに向けるものではない。』
少しだけ考え、もう一行。
> 『今日出会った人へ「ありがとう」と言えることも、きっと祈りなのだ。』
旅日記を閉じると、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
澄んだその音は、夏の青空へ静かに溶けていった。




