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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第二話 歩く祈り

白い菅笠が、朝日に照らされていた。


 ゆっくりと。


 一定の歩幅で。


 金剛杖が地面を突くたび、


 コツ……。


 コツ……。


 という乾いた音が、静かな道に響いている。


 蒼真は、その後ろ姿をしばらく眺めていた。


 「急がないんだね。」


 タケルは穏やかに頷く。


 「急ぐ旅もある。」


 「だが、お遍路は歩くことそのものに意味がある。」


 ◇


 四人も自然と同じ道を歩き始めた。


 町外れへ向かう緩やかな坂道。


 道端には百日紅が咲き、庭先では風鈴が涼やかな音を鳴らしている。


 畑では農家の人が朝の水やりをしていた。


 「おはようございます。」


 白装束の旅人が頭を下げる。


 「おはよう。」


 畑の女性も笑顔で手を振った。


 そのやり取りは、まるで昔からの知り合い同士のように自然だった。


 蒼真は少し驚く。


 「知り合いなんですか?」


 女性は首を振る。


 「初めて会った人よ。」


 「でも、お遍路さんには『おはよう』って言いたくなるの。」


 照れくさそうに笑いながら、畑で採れたばかりの小さなトマトを紙袋へ入れた。


 「よかったら、皆さんもどうぞ。」


 「ありがとうございます。」


 澪が受け取ると、女性は優しく微笑んだ。


 「暑いけん、水分もしっかり取るんよ。」


 ◇


 少し先で、お遍路さんが木陰に腰を下ろした。


 蒼真たちも近くのベンチへ座る。


 旅人は水筒のお茶を一口飲み、四人へ柔らかく笑いかけた。


 「皆さんも旅ですか。」


 「はい。」


 蒼真が答える。


 「瀬戸内を歩いています。」


 「それはいい旅ですね。」


 旅人の声は穏やかで、どこか安心する響きがあった。


 年の頃は六十代半ば。


 日に焼けた顔には深い皺が刻まれているが、その目は少年のように澄んでいた。


 ◇


 「お遍路さんなんですか?」


 陸が尋ねる。


 「ええ。」


 旅人は頷く。


 「今回で二巡目です。」


 「二回も?」


 潮が驚く。


 「お願い事があるんですか?」


 旅人は少し考えてから首を横に振った。


 「最初は、ありました。」


 「でも、今は違います。」


 蒼真は静かに耳を傾ける。


 「妻が亡くなって十年になります。」


 旅人は遠くの空を見上げた。


 「最初のお遍路は、悲しくて歩いていました。」


 「どうして自分だけ残されたんだろう、と。」


 風が吹き、百日紅の花びらが一枚、足元へ舞い落ちる。


 「でも歩いているうちに、いろんな人に声を掛けてもらいました。」


 「水をいただいて。」


 「おにぎりをいただいて。」


 「『お気をつけて』と言ってもらって。」


 旅人は少し笑う。


 「気づいたんです。」


 「私は一人で歩いていると思っていたけれど、たくさんの人に支えられて歩いていたんだと。」


 ◇


 タケルは静かに目を閉じて、その話を聞いていた。


 旅人は続ける。


 「だから二回目は、お礼を言いながら歩こうと思ったんです。」


 「お寺だけじゃありません。」


 「道にも。」


 「風にも。」


 「出会う人にも。」


 「ありがとう、って。」


 澪の瞳が少し潤む。


 「それも、お遍路なんですね。」


 「ええ。」


 旅人は穏やかに頷いた。


 「祈るというのは、お願いすることだけじゃない。」


 「感謝することも、祈りなんですよ。」


 ◇


 しばらく誰も話さなかった。


 蝉の声だけが、夏空へ響いている。


 やがて旅人は立ち上がり、菅笠を軽く直した。


 「それでは。」


 「よい旅を。」


 蒼真たちも立ち上がる。


 「ありがとうございました。」


 旅人は笑顔で金剛杖を手に取ると、また一定の歩幅で歩き始めた。


 コツ……。


 コツ……。


 その音は急ぐことなく、遠ざかっていく。


 蒼真は、その背中が見えなくなるまで見送っていた。


 「タケル。」


 「歩くって、不思議だね。」


 タケルは静かに微笑む。


 「ああ。」


 「足は前へ進む。」


 「だが、人の心は、ときに過去へ戻り、ときに未来へ向かう。」


 「その両方を抱えて歩けるのが、人というものだ。」


 蒼真は旅日記を開く。


 新しいページに、ゆっくりと書き留める。


 > 『祈りは、神様だけに向けるものではない。』


 少しだけ考え、もう一行。


 > 『今日出会った人へ「ありがとう」と言えることも、きっと祈りなのだ。』


 旅日記を閉じると、遠くから鐘の音が聞こえてきた。


 澄んだその音は、夏の青空へ静かに溶けていった。

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