第一話 おかえりの一杯
朝の光を受けながら、定期船は静かに港へ滑り込んだ。
海は穏やかだった。
波は小さく岸壁を打ち、潮風がゆっくりと町へ吹き抜けていく。
蒼真は桟橋へ降り立ち、大きく息を吸った。
「……帰ってきた。」
思わずこぼれた言葉に、澪が隣で笑う。
「うん。また香川だね。」
前にこの地を訪れたのは、小豆島へ渡る旅の途中だった。
エンジェルロードを歩き、潮が満ちていく海を眺めた夕暮れ。
島の人たちと笑い合った時間。
あの旅は、今でも旅日記のページから潮の香りが漂ってきそうなくらい鮮やかに残っている。
陸が港の向こうを眺めた。
「そういえば……。」
「また食べたいものがある。」
その一言に、潮がすぐ反応する。
「うどん?」
「もちろん。」
四人は顔を見合わせて笑った。
タケルも口元を緩める。
「人は不思議なものだ。」
「景色だけではなく、味もまた、その土地へ帰りたくなる理由になる。」
◇
港から少し歩くと、見覚えのある暖簾が風に揺れていた。
白い布に墨で書かれた、たった三文字。
うどん
朝早いというのに、店先には地元の人たちが自然と集まっている。
仕事前の大工。
漁師。
学生。
新聞を小脇に抱えた年配の男性。
観光客よりも、町の人たちのほうがずっと多い。
蒼真は暖簾を見上げ、小さく笑った。
「ここだ。」
「覚えてる。」
◇
暖簾をくぐる。
その瞬間。
「おっ!」
威勢のいい声が店の奥から飛んできた。
「歩き旅のお兄さんたちやないか!」
湯気の向こうから現れた店主が、目を丸くして笑った。
「また来てくれたんやなぁ!」
蒼真たちは思わず顔を見合わせる。
「覚えていてくださったんですか?」
店主は大きく笑う。
「忘れるもんか。」
「橋を歩いて、島を巡っとる言うてたやろ。」
「あんなん、そうそうおらん。」
「ほらほら、座り。」
「今日は出汁がようできとるで。」
その何気ない言葉が、胸の奥をじんわりと温めた。
旅先で、「また来たね」と迎えてもらえる。
それだけで、この町が少しだけ自分たちの居場所になった気がした。
◇
大きな釜では、白いうどんがゆらゆらと湯の中を泳いでいる。
いりこの香り。
昆布のやさしい香り。
湯気に包まれた店内は、以前と何ひとつ変わっていなかった。
「今日は何にする?」
店主が尋ねる。
陸は笑う。
「前と同じで。」
「やっぱり『かけ』。」
「それが一番うまいけん!」
店主は誇らしそうに頷いた。
◇
丼が運ばれてくる。
透き通った黄金色のだし。
刻みねぎ。
そして、艶やかな麺。
蒼真は静かに箸を取る。
まずは、だしをひと口。
「ああ……。」
思わず息が漏れた。
覚えている味だった。
けれど、前よりも深く感じる。
旅を重ねた今だからこそ分かる優しさがあった。
澪も微笑む。
「前もおいしかったけど。」
「今日はもっとおいしい。」
店主が笑いながら言う。
「腹が減っとるだけやないんか?」
店中がどっと笑った。
◇
食事を終える頃、店主が湯飲みを置きながら言った。
「今日はどこまで行くんや?」
「西へ。」
蒼真が答える。
「また歩きながら旅を続けます。」
「ええ旅やな。」
店主は腕を組み、少しだけ遠くを見るような目になった。
「若い頃は、わしもよう歩いた。」
「今は店から出られんけどな。」
そう言って笑う。
「でもな。」
「旅いうんは、歩いた距離やない。」
「帰りたい場所が増えたら、それでええ旅や。」
店内が静かになった。
誰も何も言わなかった。
けれど、その言葉は、そこにいた全員の心へゆっくりと染み込んでいった。
◇
店を出る前。
店主は厨房の奥から、小さな紙袋を持ってきた。
「これ。」
「道中で腹が減ったら食べ。」
中には、手作りのいなり寿司が四つ。
まだ少し温かい。
「そんな、いただけません。」
蒼真が慌てると、店主は笑って首を振る。
「前にも言うたやろ。」
「旅人は、腹いっぱいで歩くんや。」
「それが香川のお接待や。」
タケルが静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その一礼には、神としてではなく、一人の旅人としての感謝が込められていた。
◇
店を出ると、朝の町はすっかり目を覚ましていた。
通学する子どもたち。
仕事へ向かう人々。
自転車で走り抜ける高校生。
その日常の中を、四人はゆっくりと歩き出す。
蒼真は旅日記を開いた。
昨日、火を守る島でもらった木札を栞代わりに挟み、今日のページへ書き記す。
> 『旅とは、新しい景色を集めることだけではない。』
少し考え、続ける。
> 『「おかえり」と迎えてくれる人が、一人ずつ増えていくことなのかもしれない。』
ページを閉じる。
その時だった。
白装束に菅笠をかぶり、金剛杖を静かについて歩く一人のお遍路さんが、四人の前をゆっくりと通り過ぎた。
急ぐことなく。
立ち止まることなく。
一歩、一歩。
大地を確かめるように歩いていく。
蒼真は、その後ろ姿を見送った。
「……あの人も、旅の途中なんだね。」
タケルは穏やかに頷く。
「いや。」
「旅の途中であり、祈りの途中でもある。」
朝の風が、白い菅笠をやさしく揺らした。
その背中は、この先に待つ新たな出会いを、静かに運んでくるようだった。旅」から「祈りの旅」へと導いていくことを。




