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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第八章 讃岐に吹く風

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第一話 おかえりの一杯

朝の光を受けながら、定期船は静かに港へ滑り込んだ。


 海は穏やかだった。


 波は小さく岸壁を打ち、潮風がゆっくりと町へ吹き抜けていく。


 蒼真は桟橋へ降り立ち、大きく息を吸った。


 「……帰ってきた。」


 思わずこぼれた言葉に、澪が隣で笑う。


 「うん。また香川だね。」


 前にこの地を訪れたのは、小豆島へ渡る旅の途中だった。


 エンジェルロードを歩き、潮が満ちていく海を眺めた夕暮れ。


 島の人たちと笑い合った時間。


 あの旅は、今でも旅日記のページから潮の香りが漂ってきそうなくらい鮮やかに残っている。


 陸が港の向こうを眺めた。


 「そういえば……。」


 「また食べたいものがある。」


 その一言に、潮がすぐ反応する。


 「うどん?」


 「もちろん。」


 四人は顔を見合わせて笑った。


 タケルも口元を緩める。


 「人は不思議なものだ。」


 「景色だけではなく、味もまた、その土地へ帰りたくなる理由になる。」


 ◇


 港から少し歩くと、見覚えのある暖簾が風に揺れていた。


 白い布に墨で書かれた、たった三文字。


 うどん


 朝早いというのに、店先には地元の人たちが自然と集まっている。


 仕事前の大工。


 漁師。


 学生。


 新聞を小脇に抱えた年配の男性。


 観光客よりも、町の人たちのほうがずっと多い。


 蒼真は暖簾を見上げ、小さく笑った。


 「ここだ。」


 「覚えてる。」


 ◇


 暖簾をくぐる。


 その瞬間。


 「おっ!」


 威勢のいい声が店の奥から飛んできた。


 「歩き旅のお兄さんたちやないか!」


 湯気の向こうから現れた店主が、目を丸くして笑った。


 「また来てくれたんやなぁ!」


 蒼真たちは思わず顔を見合わせる。


 「覚えていてくださったんですか?」


 店主は大きく笑う。


 「忘れるもんか。」


 「橋を歩いて、島を巡っとる言うてたやろ。」


 「あんなん、そうそうおらん。」


 「ほらほら、座り。」


 「今日は出汁がようできとるで。」


 その何気ない言葉が、胸の奥をじんわりと温めた。


 旅先で、「また来たね」と迎えてもらえる。


 それだけで、この町が少しだけ自分たちの居場所になった気がした。


 ◇


 大きな釜では、白いうどんがゆらゆらと湯の中を泳いでいる。


 いりこの香り。


 昆布のやさしい香り。


 湯気に包まれた店内は、以前と何ひとつ変わっていなかった。


 「今日は何にする?」


 店主が尋ねる。


 陸は笑う。


 「前と同じで。」


 「やっぱり『かけ』。」


 「それが一番うまいけん!」


 店主は誇らしそうに頷いた。


 ◇


 丼が運ばれてくる。


 透き通った黄金色のだし。


 刻みねぎ。


 そして、艶やかな麺。


 蒼真は静かに箸を取る。


 まずは、だしをひと口。


 「ああ……。」


 思わず息が漏れた。


 覚えている味だった。


 けれど、前よりも深く感じる。


 旅を重ねた今だからこそ分かる優しさがあった。


 澪も微笑む。


 「前もおいしかったけど。」


 「今日はもっとおいしい。」


 店主が笑いながら言う。


 「腹が減っとるだけやないんか?」


 店中がどっと笑った。


 ◇


 食事を終える頃、店主が湯飲みを置きながら言った。


 「今日はどこまで行くんや?」


 「西へ。」


 蒼真が答える。


 「また歩きながら旅を続けます。」


 「ええ旅やな。」


 店主は腕を組み、少しだけ遠くを見るような目になった。


 「若い頃は、わしもよう歩いた。」


 「今は店から出られんけどな。」


 そう言って笑う。


 「でもな。」


 「旅いうんは、歩いた距離やない。」


 「帰りたい場所が増えたら、それでええ旅や。」


 店内が静かになった。


 誰も何も言わなかった。


 けれど、その言葉は、そこにいた全員の心へゆっくりと染み込んでいった。


 ◇


 店を出る前。


 店主は厨房の奥から、小さな紙袋を持ってきた。


 「これ。」


 「道中で腹が減ったら食べ。」


 中には、手作りのいなり寿司が四つ。


 まだ少し温かい。


 「そんな、いただけません。」


 蒼真が慌てると、店主は笑って首を振る。


 「前にも言うたやろ。」


 「旅人は、腹いっぱいで歩くんや。」


 「それが香川のお接待や。」


 タケルが静かに頭を下げた。


 「ありがとうございます。」


 その一礼には、神としてではなく、一人の旅人としての感謝が込められていた。


 ◇


 店を出ると、朝の町はすっかり目を覚ましていた。


 通学する子どもたち。


 仕事へ向かう人々。


 自転車で走り抜ける高校生。


 その日常の中を、四人はゆっくりと歩き出す。


 蒼真は旅日記を開いた。


 昨日、火を守る島でもらった木札を栞代わりに挟み、今日のページへ書き記す。


 > 『旅とは、新しい景色を集めることだけではない。』


 少し考え、続ける。


 > 『「おかえり」と迎えてくれる人が、一人ずつ増えていくことなのかもしれない。』


 ページを閉じる。


 その時だった。


 白装束に菅笠をかぶり、金剛杖を静かについて歩く一人のお遍路さんが、四人の前をゆっくりと通り過ぎた。


 急ぐことなく。


 立ち止まることなく。


 一歩、一歩。


 大地を確かめるように歩いていく。


 蒼真は、その後ろ姿を見送った。


 「……あの人も、旅の途中なんだね。」


 タケルは穏やかに頷く。


 「いや。」


 「旅の途中であり、祈りの途中でもある。」


 朝の風が、白い菅笠をやさしく揺らした。


 その背中は、この先に待つ新たな出会いを、静かに運んでくるようだった。旅」から「祈りの旅」へと導いていくことを。

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