第五話 火のはじまり
夜が島を包んだ。
篝火の橙色の光が、ゆらゆらと人々の顔を照らしている。
昼間は静かだった広場も、今は笑い声で満ちていた。
大きな鍋では魚のつみれ汁が湯気を立て、炭火では島で獲れた鯛や烏賊が香ばしく焼かれている。
子どもたちは走り回り、大人たちは酒を酌み交わしながら近況を語り合う。
旅人も島の人も、そこには区別がなかった。
「蒼真さん、これもどうぞ。」
結菜が皿を差し出す。
小さな握り飯の上には、香ばしく焼いた味噌が塗られていた。
「島では祭りの日によく作るんです。」
蒼真は一口かじる。
甘い味噌のあとから、薪火で焼かれた香りがふわりと広がった。
「おいしい……。」
「火の味がする。」
結菜は少し照れながら笑った。
「祖母も同じことを言います。」
◇
広場の隅では、年配の女性たちが子どもへ昔話を聞かせていた。
子どもたちは目を輝かせながら耳を傾けている。
「昔はなぁ。」
「この島には電気なんてなかったんよ。」
「夜になると、この火だけが頼りだった。」
小さな男の子が尋ねる。
「怖くなかったの?」
おばあさんは篝火を見つめた。
「怖かったよ。」
「だからみんなで火を囲んだんだ。」
「一人だと暗い夜も、みんなで笑えば明るくなるからね。」
◇
少し離れた場所で、蒼真たちは篝火を囲んで腰を下ろしていた。
炎が薪をはぜる音だけが、静かに響いている。
その時、結菜がタケルへ尋ねた。
「タケルさん。」
「昼間、『長い時を越えたな』って言っていましたよね。」
「どうして、この火を知っていたんですか?」
蒼真たちも自然とタケルを見る。
タケルは炎を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息をつく。
「……昔の話だ。」
◇
炎が静かに揺れる。
「まだ、人が火を自由に扱えなかった頃。」
「冬は長く、夜は深かった。」
「人は寒さを恐れ、闇を恐れていた。」
子どもたちまで、いつの間にかタケルの周りへ集まっていた。
誰も話を遮らない。
「ある日、一人の娘が山で迷った。」
「吹雪の中で、もう帰れないと思ったその時。」
「一羽の白い鳥が現れた。」
「鳥は娘を洞穴へ導き、そこで一つの小さな火を見つけた。」
タケルは篝火を見つめる。
「その火は、誰のものでもなかった。」
「山のものでも。」
「神のものでも。」
「ただ、命をつなぐために、この世へ灯っていた。」
◇
結菜は息をのんで聞いている。
「娘は、その火を村へ持ち帰った。」
「けれど、自分だけのものにはしなかった。」
「隣の家へ。」
「旅人へ。」
「寒さに震える老人へ。」
「生まれたばかりの子へ。」
「火を分け続けた。」
タケルは静かに微笑む。
「すると、不思議なことが起きた。」
「火は、どれだけ分けても小さくならなかった。」
子どもたちが顔を見合わせる。
「どうして?」
タケルは優しく答えた。
「それは火が薪だけで燃えていたのではないからだ。」
「人が『誰かを温めたい』と願う心が、炎を育てていた。」
◇
広場は静まり返っていた。
風が吹き、篝火がゆっくり揺れる。
結菜が小さくつぶやく。
「だから……祖母は『火は借りるもの』って。」
「そういう意味だったんですね。」
タケルは静かにうなずいた。
「火は、持つものではない。」
「預かるものだ。」
「そして、次の人へ渡すものだ。」
その言葉に、島の長老も深くうなずいていた。
まるで、遠い昔から知っていた話を、もう一度思い出したように。
◇
その夜。
祭りは遅くまで続いた。
太鼓が鳴り、笛が響き、人々は輪になって踊る。
蒼真たちも手を引かれ、ぎこちなく輪へ加わった。
笑い声が夜空へ昇る。
その上には、こぼれ落ちそうな満天の星。
そして、その星の下では、一つの火が変わらず静かに燃え続けていた。
蒼真は旅日記を開く。
今日の最後の一行を書く。
> 「火は夜を照らす。けれど、人の心を照らすのは、その火を囲む誰かの笑顔なのだ。」
ページを閉じると、篝火がぱちり、と小さく音を立てた。
まるで、その言葉に静かに頷いてくれたようだった。




