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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第七章 灯を継ぐ島

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第四話 一つの火

夕暮れが近づくころ。


 島を吹き抜ける風は、昼間より少しだけ涼しくなっていた。


 参道に吊るされた提灯へ、ひとつ、またひとつと灯がともされていく。


 淡い橙色の光が、白い和紙を透かして揺れていた。


 祭りの始まりを告げる太鼓が鳴る。


 ドォン――。


 島中が、その一打に耳を澄ませた。


 ◇


 社の境内では、誰も大きな声を出さない。


 子どもたちでさえ、自然と背筋を伸ばしていた。


 結菜は白い装束に着替え、火守殿の前へ立つ。


 深呼吸を一つ。


 祖母がそっと肩へ手を置いた。


 「緊張してる?」


 「……少しだけ。」


 結菜は正直に答えた。


 祖母は優しく笑う。


 「それでいい。」


 「火は怖いものだから。」


 「怖いと思える人だけが、大切に守れる。」


 結菜は静かにうなずいた。


 ◇


 火守殿の扉が開く。


 昼に見た小さな炎が、変わらぬ姿で揺れていた。


 結菜は両手で小さな陶の火入れを持つ。


 祖母は長い竹の先に結んだ細い灯芯を炎へ近づけた。


 しばらくして、小さな火が灯る。


 祖母はその火を結菜へ渡した。


 「今日から、この火はあなたが運びなさい。」


 「はい。」


 その返事は決して大きくない。


 けれど島中へ届くほど、まっすぐだった。


 ◇


 結菜は一歩、また一歩と歩き始める。


 急がない。


 炎が揺れないように。


 風を読むように。


 両手で包み込むように。


 参道の両脇では、島の人々が静かに見守っていた。


 誰も拍手をしない。


 誰も声をかけない。


 ただ、その小さな背中を信じている。


 蒼真も息をするのを忘れるほど、その光景を見つめていた。


 ◇


 その時。


 海から一陣の風が吹いた。


 提灯が一斉に揺れる。


 結菜の火も、小さく震えた。


 陸が思わず身を乗り出す。


 「危ない……!」


 しかし結菜は立ち止まった。


 歩かなかった。


 火を守るように体を少しだけ傾け、風が過ぎるのを待った。


 風は数秒で静まる。


 炎は消えなかった。


 結菜は再び歩き始める。


 その姿を見て、タケルが静かにつぶやいた。


 「教えを守ったな。」


 蒼真が小声で尋ねる。


 「教え?」


 「風には逆らわない。」


 「風が過ぎるのを待つ。」


 「来島海峡で学んだことと同じだ。」


 蒼真は、はっとした。


 潮を読むこと。


 風を待つこと。


 焦らないこと。


 この旅で出会ったすべての教えが、今、結菜の歩みに重なっている。


 ◇


 やがて広場へ着く。


 中央には、大きな篝火台。


 けれど、まだ薪には火がない。


 結菜は火入れから一本の松明へ、静かに炎を移した。


 その松明を、島の長老へ手渡す。


 長老は深く頭を下げた。


 「ありがとう。」


 その一言だけだった。


 結菜も一礼する。


 「お願いいたします。」


 長老は松明を掲げ、ゆっくりと篝火へ近づいた。


 乾いた薪が、ぱちり、と小さく鳴る。


 次の瞬間。


 ぱあっと、橙色の炎が夜空へ立ち上った。


 歓声は上がらない。


 代わりに、島の人たちは静かに頭を下げた。


 火を迎えたことへの感謝。


 今年もこの日を迎えられたことへの感謝。


 その祈りが、夜の空気を満たしていく。


 ◇


 篝火から、それぞれの家の灯籠へ。


 漁師が持つ提灯へ。


 港の常夜灯へ。


 境内の灯明へ。


 一つの火が、何十もの火へ分けられていく。


 けれど、不思議なことに、最初の炎は少しも小さくならなかった。


 澪が静かに言う。


 「火って……。」


 「分けても、減らないんだね。」


 タケルは穏やかにうなずく。


 「思いやりも同じだ。」


 「知恵も。」


 「祈りも。」


 「分け合うほど、人の世は明るくなる。」


 ◇


 蒼真は旅日記を開いた。


 今日のページには、火の色が映り込んでいる。


 ゆっくりと、一行だけ書き記した。


 > 『本当に受け継がれているのは、炎ではない。誰かの明日を照らしたいという願いである。』


 顔を上げると、結菜が篝火を見つめながら微笑んでいた。


 その横顔は、もう「火を守る少女」ではなかった。


 誰かから受け継ぎ、そしていつか誰かへ渡していく――


 灯を継ぐ人の顔になっていた。

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