第四話 一つの火
夕暮れが近づくころ。
島を吹き抜ける風は、昼間より少しだけ涼しくなっていた。
参道に吊るされた提灯へ、ひとつ、またひとつと灯がともされていく。
淡い橙色の光が、白い和紙を透かして揺れていた。
祭りの始まりを告げる太鼓が鳴る。
ドォン――。
島中が、その一打に耳を澄ませた。
◇
社の境内では、誰も大きな声を出さない。
子どもたちでさえ、自然と背筋を伸ばしていた。
結菜は白い装束に着替え、火守殿の前へ立つ。
深呼吸を一つ。
祖母がそっと肩へ手を置いた。
「緊張してる?」
「……少しだけ。」
結菜は正直に答えた。
祖母は優しく笑う。
「それでいい。」
「火は怖いものだから。」
「怖いと思える人だけが、大切に守れる。」
結菜は静かにうなずいた。
◇
火守殿の扉が開く。
昼に見た小さな炎が、変わらぬ姿で揺れていた。
結菜は両手で小さな陶の火入れを持つ。
祖母は長い竹の先に結んだ細い灯芯を炎へ近づけた。
しばらくして、小さな火が灯る。
祖母はその火を結菜へ渡した。
「今日から、この火はあなたが運びなさい。」
「はい。」
その返事は決して大きくない。
けれど島中へ届くほど、まっすぐだった。
◇
結菜は一歩、また一歩と歩き始める。
急がない。
炎が揺れないように。
風を読むように。
両手で包み込むように。
参道の両脇では、島の人々が静かに見守っていた。
誰も拍手をしない。
誰も声をかけない。
ただ、その小さな背中を信じている。
蒼真も息をするのを忘れるほど、その光景を見つめていた。
◇
その時。
海から一陣の風が吹いた。
提灯が一斉に揺れる。
結菜の火も、小さく震えた。
陸が思わず身を乗り出す。
「危ない……!」
しかし結菜は立ち止まった。
歩かなかった。
火を守るように体を少しだけ傾け、風が過ぎるのを待った。
風は数秒で静まる。
炎は消えなかった。
結菜は再び歩き始める。
その姿を見て、タケルが静かにつぶやいた。
「教えを守ったな。」
蒼真が小声で尋ねる。
「教え?」
「風には逆らわない。」
「風が過ぎるのを待つ。」
「来島海峡で学んだことと同じだ。」
蒼真は、はっとした。
潮を読むこと。
風を待つこと。
焦らないこと。
この旅で出会ったすべての教えが、今、結菜の歩みに重なっている。
◇
やがて広場へ着く。
中央には、大きな篝火台。
けれど、まだ薪には火がない。
結菜は火入れから一本の松明へ、静かに炎を移した。
その松明を、島の長老へ手渡す。
長老は深く頭を下げた。
「ありがとう。」
その一言だけだった。
結菜も一礼する。
「お願いいたします。」
長老は松明を掲げ、ゆっくりと篝火へ近づいた。
乾いた薪が、ぱちり、と小さく鳴る。
次の瞬間。
ぱあっと、橙色の炎が夜空へ立ち上った。
歓声は上がらない。
代わりに、島の人たちは静かに頭を下げた。
火を迎えたことへの感謝。
今年もこの日を迎えられたことへの感謝。
その祈りが、夜の空気を満たしていく。
◇
篝火から、それぞれの家の灯籠へ。
漁師が持つ提灯へ。
港の常夜灯へ。
境内の灯明へ。
一つの火が、何十もの火へ分けられていく。
けれど、不思議なことに、最初の炎は少しも小さくならなかった。
澪が静かに言う。
「火って……。」
「分けても、減らないんだね。」
タケルは穏やかにうなずく。
「思いやりも同じだ。」
「知恵も。」
「祈りも。」
「分け合うほど、人の世は明るくなる。」
◇
蒼真は旅日記を開いた。
今日のページには、火の色が映り込んでいる。
ゆっくりと、一行だけ書き記した。
> 『本当に受け継がれているのは、炎ではない。誰かの明日を照らしたいという願いである。』
顔を上げると、結菜が篝火を見つめながら微笑んでいた。
その横顔は、もう「火を守る少女」ではなかった。
誰かから受け継ぎ、そしていつか誰かへ渡していく――
灯を継ぐ人の顔になっていた。




