第二話 火守の島
定期船は静かに岸を離れた。
エンジンの低い音が朝の海へ溶けていく。
今治の町並みは少しずつ遠ざかり、代わりに緑深い小さな島が近づいてきた。
桟橋が一つ。
防波堤の赤い灯台。
十数軒ほどの家々。
港には漁網が干され、猫が一匹、のんびりと船を見送っている。
「小さな島……。」
澪が思わずつぶやく。
少女は嬉しそうに笑った。
「はい。でも、私たちには世界で一番大きな島なんです。」
その言葉には、少しの照れと、大きな誇りが込められていた。
◇
島へ降り立つと、潮の香りに混じって薪の匂いが漂ってきた。
どこかで朝の竈に火が入ったのだろう。
煙突から細い白煙が空へ昇っている。
「懐かしい匂い。」
潮が深く息を吸う。
少女は頷いた。
「この島では、今でも薪でご飯を炊く家があるんです。」
「毎日じゃないけれど、お祭りの日は必ず。」
◇
坂道を登ると、石垣に囲まれた小さな社が見えてきた。
鳥居は決して大きくない。
けれど、境内は驚くほど丁寧に掃き清められていた。
落ち葉一枚ない参道。
花が供えられた手水鉢。
朝露に濡れた榊。
「きれい……。」
蒼真は思わず立ち止まる。
「毎朝、島のみんなで掃除するんです。」
少女は箒を手に取りながら言った。
「神様のため、というより。」
少し笑う。
「今日来る人が気持ちよく歩けるように。」
タケルはその言葉を聞き、静かに目を細めた。
「祈りとは、そういうものだ。」
◇
社の裏手には、小さな石造りの建物があった。
窓はなく、分厚い木の扉だけがある。
少女は扉の前で一礼する。
「ここが火守殿です。」
「火守殿?」
陸が小さく聞き返す。
「はい。」
「島の火を守る場所です。」
少女はゆっくりと扉を開いた。
中はひんやりと涼しく、外の蝉の声も少し遠く感じられる。
部屋の中央には、黒く磨かれた石の炉。
その上で、小さな炎が静かに揺れていた。
誰も薪をくべていない。
誰も火を起こしていない。
それでも、炎は穏やかに燃え続けている。
澪は思わず息をのむ。
「……ずっと?」
少女は静かに頷いた。
「毎日、誰かが見守っています。」
「夜も。」
「雨の日も。」
「台風の日も。」
「火を絶やさないように。」
◇
蒼真は炎を見つめた。
勢いよく燃え上がる火ではない。
ろうそくほどの、小さな火。
それでも、不思議と目を離せなかった。
「小さいですね。」
少女は優しく笑う。
「はい。」
「でも、小さい火ほど大切なんです。」
「大きな火は、すぐ目に入ります。」
「でも、小さな火は、誰かが気づいてあげないと消えてしまう。」
その言葉に、蒼真は旅の途中で出会った人たちを思い出した。
見送ってくれた女将。
梅干しを握ってくれたおばあさん。
麦茶を出してくれた自転車屋の店主。
どれも派手ではない。
けれど、その優しさが旅を支えてくれていた。
◇
タケルは炉の前に立ち、静かに頭を下げた。
「長い時を越えたな。」
少女は少し驚く。
「この火をご存じなんですか?」
タケルは微笑むだけだった。
「昔、この火を囲んで、人は夜を越えた。」
「笑い。」
「泣き。」
「明日を語り合った。」
「火は、暖を取るためだけではない。」
「人の心を、一つにするものでもある。」
◇
その時、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。
祭りの準備が始まったのだ。
太鼓を運ぶ青年たち。
竹を切る老人。
花を飾る子どもたち。
島中が、今日の祭りへ向けて静かに動き始めていた。
少女は嬉しそうに言う。
「今日は、この火をみんなで分け合う日なんです。」
「分け合う?」
「はい。」
「家々の竈へ。」
「漁に出る船の灯へ。」
「祭りの篝火へ。」
「一つの火が、島中へ旅をするんです。」
蒼真は、その言葉を聞いて胸が温かくなった。
橋が人をつないだように。
糸が布を織ったように。
今度は、一つの火が島の暮らしをつないでいく。
この島で受け継がれているのは、炎そのものではない。
「誰かの暮らしを明るくしたい」という願いなのだと、蒼真は静かに感じていた。




