第一話 朝焼けの出航
翌朝。
今治港は、まだ朝靄に包まれていた。
海は鏡のように穏やかで、昨夜港を照らしていた灯りは、朝日にその役目を譲ろうとしている。
蒼真は早く目が覚めてしまい、一人で岸壁まで歩いてきていた。
旅日記を開く。
昨夜書いた最後の一文が、朝の光を受けて静かに浮かび上がる。
『神代の航路は、今も人の心の中を静かに流れている。』
その文字を眺めていると、背後から声がした。
「朝は、海の一番素直な時間なんですよ。」
振り返ると、小さな漁船の舫いをほどいている老人がいた。
日に焼けた顔。
潮風で色褪せた紺色の作業着。
手には何度も使い込まれた太い綱。
蒼真は頭を下げる。
「おはようございます。」
「早いですね。」
老人は笑った。
「海に出る者は、太陽より少しだけ早起きなんじゃ。」
◇
ちょうどその時。
一羽のカモメが静かに港を横切った。
朝日に照らされた羽が白く輝く。
老人はその姿を見上げながら言った。
「鳥はな。」
「風を読む。」
「船乗りは潮を読む。」
「漁師は空を読む。」
少し間を置いて、蒼真を見る。
「旅人は、何を読むと思う?」
蒼真は考え込む。
景色だろうか。
地図だろうか。
答えが見つからない。
すると老人は穏やかに微笑んだ。
「人の心じゃ。」
「……。」
「旅が終わったあと、残るのは景色より、人との出会いじゃけんな。」
その言葉は、これまでの旅をそっと肯定してくれるようだった。
◇
朝日が水平線からゆっくりと昇る。
その光が海を一本の金色の道へ変えていく。
タケルたちも港へやって来た。
「蒼真。」
「もう起きていたのか。」
「はい。」
蒼真は笑って答える。
「この景色を見逃したくなくて。」
澪が海を見つめる。
「海も朝になると、昨日とは違う色になるんだね。」
潮が嬉しそうに頷く。
「昨日と同じ海なのにね。」
◇
その時だった。
港の案内板の前で、一人の少女が困ったように地図を見つめていた。
年の頃は十五、六歳。
肩まで伸びた黒髪を一つに束ね、白いブラウスに藍色のスカートという、どこか島らしい素朴な服装をしている。
胸には、小さな木のお守りが揺れていた。
少女は何度も港と地図を見比べている。
澪がそっと近づく。
「何か探しているの?」
少女は少し驚いたように顔を上げた。
「あ……。」
「すみません。」
「この船……今日も出ますか?」
指さした先には、小さな離島へ向かう定期船の時刻表。
「大丈夫だと思うよ。」
陸が笑顔で答える。
少女は安心したように胸をなで下ろした。
「よかった……。」
「今日は、大事な日なので。」
◇
「大事な日?」
蒼真が尋ねると、少女は少し照れながら微笑んだ。
「島のお祭りなんです。」
「一年に一度だけ。」
「火を迎える日。」
その言葉に、タケルの表情がわずかに変わった。
静かに海の向こうを見つめる。
まるで、その祭りの名を遠い昔から知っているかのように。
「火を……迎える?」
潮が聞き返す。
少女は頷いた。
「はい。」
「私の島では、昔から『火は人から生まれるものではなく、神さまからお借りするもの』って伝えられているんです。」
朝風が吹く。
少女の胸元の木のお守りが、かすかに揺れた。
そこには、小さく三本の炎が彫られていた。
タケルは、その紋様を見つめ、小さく息をのむ。
「……まだ残っていたのか。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
◇
定期船が港へゆっくりと近づいてくる。
船の白い航跡が、朝日に照らされて一本の光の帯となった。
少女は振り返り、柔らかく微笑む。
「もし、お時間があれば……。」
「私たちの島へ来ませんか?」
「きっと、皆さんにも見ていただきたい火があります。」
蒼真たちは顔を見合わせた。
その誘いが、新しい旅の始まりになることを、まだ誰も知らなかった。
ただ一人――タケルだけを除いて。
彼は朝日に染まる海を見つめながら、静かに目を閉じる。
神代から絶えることなく受け継がれてきた、小さな炎。
その灯が、再び四人を新たな航路へ導こうとしていた。




