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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第七章 灯を継ぐ島

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第一話 朝焼けの出航

翌朝。


 今治港は、まだ朝靄に包まれていた。


 海は鏡のように穏やかで、昨夜港を照らしていた灯りは、朝日にその役目を譲ろうとしている。


 蒼真は早く目が覚めてしまい、一人で岸壁まで歩いてきていた。


 旅日記を開く。


 昨夜書いた最後の一文が、朝の光を受けて静かに浮かび上がる。


 『神代の航路は、今も人の心の中を静かに流れている。』


 その文字を眺めていると、背後から声がした。


 「朝は、海の一番素直な時間なんですよ。」


 振り返ると、小さな漁船の舫いをほどいている老人がいた。


 日に焼けた顔。


 潮風で色褪せた紺色の作業着。


 手には何度も使い込まれた太い綱。


 蒼真は頭を下げる。


 「おはようございます。」


 「早いですね。」


 老人は笑った。


 「海に出る者は、太陽より少しだけ早起きなんじゃ。」


 ◇


 ちょうどその時。


 一羽のカモメが静かに港を横切った。


 朝日に照らされた羽が白く輝く。


 老人はその姿を見上げながら言った。


 「鳥はな。」


 「風を読む。」


 「船乗りは潮を読む。」


 「漁師は空を読む。」


 少し間を置いて、蒼真を見る。


 「旅人は、何を読むと思う?」


 蒼真は考え込む。


 景色だろうか。


 地図だろうか。


 答えが見つからない。


 すると老人は穏やかに微笑んだ。


 「人の心じゃ。」


 「……。」


 「旅が終わったあと、残るのは景色より、人との出会いじゃけんな。」


 その言葉は、これまでの旅をそっと肯定してくれるようだった。


 ◇


 朝日が水平線からゆっくりと昇る。


 その光が海を一本の金色の道へ変えていく。


 タケルたちも港へやって来た。


 「蒼真。」


 「もう起きていたのか。」


 「はい。」


 蒼真は笑って答える。


 「この景色を見逃したくなくて。」


 澪が海を見つめる。


 「海も朝になると、昨日とは違う色になるんだね。」


 潮が嬉しそうに頷く。


 「昨日と同じ海なのにね。」


 ◇


 その時だった。


 港の案内板の前で、一人の少女が困ったように地図を見つめていた。


 年の頃は十五、六歳。


 肩まで伸びた黒髪を一つに束ね、白いブラウスに藍色のスカートという、どこか島らしい素朴な服装をしている。


 胸には、小さな木のお守りが揺れていた。


 少女は何度も港と地図を見比べている。


 澪がそっと近づく。


 「何か探しているの?」


 少女は少し驚いたように顔を上げた。


 「あ……。」


 「すみません。」


 「この船……今日も出ますか?」


 指さした先には、小さな離島へ向かう定期船の時刻表。


 「大丈夫だと思うよ。」


 陸が笑顔で答える。


 少女は安心したように胸をなで下ろした。


 「よかった……。」


 「今日は、大事な日なので。」


 ◇


 「大事な日?」


 蒼真が尋ねると、少女は少し照れながら微笑んだ。


 「島のお祭りなんです。」


 「一年に一度だけ。」


 「火を迎える日。」


 その言葉に、タケルの表情がわずかに変わった。


 静かに海の向こうを見つめる。


 まるで、その祭りの名を遠い昔から知っているかのように。


 「火を……迎える?」


 潮が聞き返す。


 少女は頷いた。


 「はい。」


 「私の島では、昔から『火は人から生まれるものではなく、神さまからお借りするもの』って伝えられているんです。」


 朝風が吹く。


 少女の胸元の木のお守りが、かすかに揺れた。


 そこには、小さく三本の炎が彫られていた。


 タケルは、その紋様を見つめ、小さく息をのむ。


 「……まだ残っていたのか。」


 誰にも聞こえないほど小さな声だった。


 ◇


 定期船が港へゆっくりと近づいてくる。


 船の白い航跡が、朝日に照らされて一本の光の帯となった。


 少女は振り返り、柔らかく微笑む。


 「もし、お時間があれば……。」


 「私たちの島へ来ませんか?」


 「きっと、皆さんにも見ていただきたい火があります。」


 蒼真たちは顔を見合わせた。


 その誘いが、新しい旅の始まりになることを、まだ誰も知らなかった。


 ただ一人――タケルだけを除いて。


 彼は朝日に染まる海を見つめながら、静かに目を閉じる。


 神代から絶えることなく受け継がれてきた、小さな炎。


 その灯が、再び四人を新たな航路へ導こうとしていた。

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