最終話 帰る灯
夕暮れ。
今治港は、昼間の賑わいが少しずつ静けさへ変わり始めていた。
岸壁に係留されたフェリーが、低く長い汽笛を鳴らす。
ぼぉ――。
その音は海を渡り、遠くの島々へゆっくりと溶けていった。
蒼真たちは港のベンチへ腰を下ろす。
目の前には、夕日に染まる瀬戸内海。
空は茜色から薄紫へ。
海もまた、その色を映して静かに揺れている。
◇
桟橋には、人が集まり始めていた。
仕事帰りの会社員。
買い物袋を提げたおばあさん。
制服姿の高校生。
幼い子どもの手を引く母親。
誰も急いではいない。
それぞれが、それぞれの「帰る船」を待っていた。
「島へ帰る人たちなんだね。」
澪が静かに言う。
タケルは頷いた。
「海は隔てるものではない。」
「昔から、人を結ぶ道だった。」
◇
やがてフェリーのタラップが下りる。
船から降りてくる人。
乗り込んでいく人。
その中に、小さな男の子がいた。
「おじいちゃーん!」
岸壁で待っていた男性へ駆け寄る。
祖父はしゃがみ込み、大きく腕を広げた。
「おかえり。」
「ただいま!」
短い言葉。
それだけなのに、その笑顔だけで胸が温かくなる。
◇
少し離れた場所では、一人の若い女性が船へ向かって何度も手を振っていた。
甲板では男性も笑顔で帽子を振る。
姿が小さくなっても。
船が港を離れても。
手は最後まで振られ続けていた。
陸がぽつりとつぶやく。
「最後まで見送るんだね。」
「うん。」
潮も静かに頷く。
「見えなくなるまで。」
◇
蒼真は旅日記を開いた。
向島で出会った女将。
因島の祭り。
大山祇神社。
伯方島のおばあさん。
造船所の老人。
自転車屋の店主。
織工房の女性。
名前を書いた人もいる。
書かなかった人もいる。
それでも、どのページにも、その人の笑顔だけは鮮やかに残っていた。
「旅って……。」
蒼真がつぶやく。
「景色を集めることじゃなかった。」
澪が微笑む。
「うん。」
「人だったね。」
◇
タケルは海の向こうを見つめていた。
夕日に照らされた島影が、一つ、また一つと黒い影になっていく。
「神代の航路。」
蒼真がその言葉を口にする。
「最初は、神様が通った道だと思っていました。」
タケルは静かに笑う。
「違ったか?」
蒼真はゆっくり首を振る。
「今は思います。」
「神様だけじゃない。」
「漁師も。」
「旅人も。」
「家族も。」
「誰かを待つ人も。」
「誰かの帰りを願う人も。」
「みんなが歩いてきた道なんですね。」
タケルは何も答えなかった。
ただ、穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
◇
港に灯がともる。
一つ。
また一つ。
オレンジ色の明かりが、水面へ長い光の道を描いていく。
蒼真は立ち上がった。
旅日記の最後のページを開く。
ペンを握り、ゆっくりと書く。
> 『橋は海を越えるために架けられた。』
少しだけ考え、続きを書く。
> 『けれど、人と人をつないでいたのは、そのずっと前から交わされてきた「おかえり」と「いってらっしゃい」だった。』
さらに、最後の一行。
> 『神代の航路は、今も人の心の中を静かに流れている。』
ページを閉じる。
その瞬間、一陣の潮風が吹いた。
旅日記の表紙を、やさしく撫でるように。
まるで、この旅を見守ってきた海が、「よく歩いた」と微笑んでくれたようだった。
◇
夜の帳が、瀬戸内海をゆっくりと包み始める。
港の灯。
船の灯。
町の灯。
その一つひとつが、誰かの帰る場所を照らしている。
蒼真たちは、その温かな光を胸に刻みながら、静かに歩き始めた。
旅は、まだ終わらない。
この先には、香川県。
火を守る少女との約束。
そして、瀬戸内に語り継がれる、もう一つの神話が待っている。




