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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第六章 海と空のあいだ

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最終話 帰る灯

夕暮れ。


 今治港は、昼間の賑わいが少しずつ静けさへ変わり始めていた。


 岸壁に係留されたフェリーが、低く長い汽笛を鳴らす。


 ぼぉ――。


 その音は海を渡り、遠くの島々へゆっくりと溶けていった。


 蒼真たちは港のベンチへ腰を下ろす。


 目の前には、夕日に染まる瀬戸内海。


 空は茜色から薄紫へ。


 海もまた、その色を映して静かに揺れている。


 ◇


 桟橋には、人が集まり始めていた。


 仕事帰りの会社員。


 買い物袋を提げたおばあさん。


 制服姿の高校生。


 幼い子どもの手を引く母親。


 誰も急いではいない。


 それぞれが、それぞれの「帰る船」を待っていた。


 「島へ帰る人たちなんだね。」


 澪が静かに言う。


 タケルは頷いた。


 「海は隔てるものではない。」


 「昔から、人を結ぶ道だった。」


 ◇


 やがてフェリーのタラップが下りる。


 船から降りてくる人。


 乗り込んでいく人。


 その中に、小さな男の子がいた。


 「おじいちゃーん!」


 岸壁で待っていた男性へ駆け寄る。


 祖父はしゃがみ込み、大きく腕を広げた。


 「おかえり。」


 「ただいま!」


 短い言葉。


 それだけなのに、その笑顔だけで胸が温かくなる。


 ◇


 少し離れた場所では、一人の若い女性が船へ向かって何度も手を振っていた。


 甲板では男性も笑顔で帽子を振る。


 姿が小さくなっても。


 船が港を離れても。


 手は最後まで振られ続けていた。


 陸がぽつりとつぶやく。


 「最後まで見送るんだね。」


 「うん。」


 潮も静かに頷く。


 「見えなくなるまで。」


 ◇


 蒼真は旅日記を開いた。


 向島で出会った女将。


 因島の祭り。


 大山祇神社。


 伯方島のおばあさん。


 造船所の老人。


 自転車屋の店主。


 織工房の女性。


 名前を書いた人もいる。


 書かなかった人もいる。


 それでも、どのページにも、その人の笑顔だけは鮮やかに残っていた。


 「旅って……。」


 蒼真がつぶやく。


 「景色を集めることじゃなかった。」


 澪が微笑む。


 「うん。」


 「人だったね。」


 ◇


 タケルは海の向こうを見つめていた。


 夕日に照らされた島影が、一つ、また一つと黒い影になっていく。


 「神代の航路。」


 蒼真がその言葉を口にする。


 「最初は、神様が通った道だと思っていました。」


 タケルは静かに笑う。


 「違ったか?」


 蒼真はゆっくり首を振る。


 「今は思います。」


 「神様だけじゃない。」


 「漁師も。」


 「旅人も。」


 「家族も。」


 「誰かを待つ人も。」


 「誰かの帰りを願う人も。」


 「みんなが歩いてきた道なんですね。」


 タケルは何も答えなかった。


 ただ、穏やかな笑みを浮かべるだけだった。


 その沈黙が、何よりの答えだった。


 ◇


 港に灯がともる。


 一つ。


 また一つ。


 オレンジ色の明かりが、水面へ長い光の道を描いていく。


 蒼真は立ち上がった。


 旅日記の最後のページを開く。


 ペンを握り、ゆっくりと書く。


 > 『橋は海を越えるために架けられた。』


 少しだけ考え、続きを書く。


 > 『けれど、人と人をつないでいたのは、そのずっと前から交わされてきた「おかえり」と「いってらっしゃい」だった。』


 さらに、最後の一行。


 > 『神代の航路は、今も人の心の中を静かに流れている。』


 ページを閉じる。


 その瞬間、一陣の潮風が吹いた。


 旅日記の表紙を、やさしく撫でるように。


 まるで、この旅を見守ってきた海が、「よく歩いた」と微笑んでくれたようだった。


 ◇


 夜の帳が、瀬戸内海をゆっくりと包み始める。


 港の灯。


 船の灯。


 町の灯。


 その一つひとつが、誰かの帰る場所を照らしている。


 蒼真たちは、その温かな光を胸に刻みながら、静かに歩き始めた。


 旅は、まだ終わらない。


 この先には、香川県。


 火を守る少女との約束。


 そして、瀬戸内に語り継がれる、もう一つの神話が待っている。

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