第九話 白い糸の向こう
午後の陽射しが少し傾き始めたころ。
蒼真たちは商店街から少し離れた住宅街を歩いていた。
大きな工場ではない。
白い壁の、どこにでもありそうな建物。
玄関先には小さな花壇があり、風に揺れるラベンダーがやさしく香っている。
入口には、木製の看板。
「織工房 結」
「工房……?」
澪が小さく首をかしげる。
その時、中から軽やかな機械の音が聞こえてきた。
カタン……。
カタン……。
規則正しく、どこか懐かしい音だった。
◇
入口には「見学歓迎」の札が掛かっていた。
蒼真が声を掛けると、七十代ほどの女性が笑顔で迎えてくれた。
「旅の方?」
「はい。」
「しまなみ海道を歩いてきました。」
「それは遠くから。」
女性は目を細めた。
「よかったら、少し見ていきませんか。」
◇
工房の中には、数台の織機が並んでいた。
一本一本の糸が、ゆっくりと布へ変わっていく。
派手な音はない。
ただ、一定のリズムだけが工房を満たしている。
カタン。
トン。
カタン。
「きれい……。」
潮は思わず息をのんだ。
白い糸が少しずつ重なり、一枚の布になっていく。
それはまるで、雪が静かに積もる景色のようだった。
◇
「一本の糸だけでは、布にはなりません。」
女性は織機に手を添えながら話す。
「縦糸だけでも。」
「横糸だけでも。」
「ほどけてしまう。」
蒼真は静かに聞いている。
「だから、お互いを支え合いながら織るんです。」
女性は一本の糸を指先でつまむ。
「強く引っ張りすぎても切れる。」
「ゆるすぎても形にならない。」
「ちょうどいい力で結ばれて、初めて丈夫な布になります。」
◇
その言葉を聞きながら、蒼真は旅を思い返していた。
向島の宿。
因島の祭り。
大山祇神社。
伯方島のおばあさん。
造船所の老人。
自転車屋の店主。
一人ひとりとの出会いが、一本の糸なら――
この旅は今、少しずつ一枚の布になり始めているのかもしれない。
◇
「実はね。」
女性は棚から一枚の白いタオルを取り出した。
まだ何の刺繍も入っていない。
まっさらな一枚だった。
「完成したばかりなんです。」
澪がそっと触れる。
ふわりとした感触。
まるで雲に触れたようだった。
「真っ白ですね。」
女性は優しく笑う。
「ええ。」
「でも、私は真っ白だから美しいとは思わないんです。」
四人は女性の言葉に耳を傾ける。
「このタオルは、毎日使われます。」
「顔を拭いて。」
「汗をぬぐって。」
「赤ちゃんを包んで。」
「誰かが泣いたとき、涙を拭くかもしれない。」
「だから、本当に美しくなるのは、使われてからなんですよ。」
工房に静かな時間が流れた。
◇
タケルが、穏やかな声で言う。
「神具も同じだ。」
「飾られているだけでは意味を持たない。」
「人が願いを託し、人が手を合わせてこそ、その役目を果たす。」
女性は驚いたようにタケルを見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「そうですね。」
「道具も、人も、誰かのために使われてこそ、生きるんですね。」
◇
帰り際、女性は四人に細い糸を一本ずつ手渡した。
「商品ではありません。」
「織り始める前の糸です。」
「よかったら、旅日記に挟んでください。」
蒼真は両手で受け取る。
細く、頼りなく見える一本の糸。
けれど、この一本が何千本も集まって、あの丈夫なタオルになる。
旅もきっと同じだ。
一つの出会いは小さい。
でも、その積み重ねが人生という布を織っていく。
◇
工房を出ると、夕方の風がラベンダーを揺らした。
蒼真は旅日記を開き、糸をそっとページに挟む。
そして、新しい言葉を書き添えた。
> 『一本の糸は細い。』
少し考えて、続ける。
> 『それでも、誰かと結ばれることで、人を包む布になれる。』
夕暮れの今治の町は、ゆっくりと茜色へ染まり始めていた。




