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潮風の神守り  作者: 灯野 しおん
第二部 第六章 海と空のあいだ

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第九話 白い糸の向こう

午後の陽射しが少し傾き始めたころ。


 蒼真たちは商店街から少し離れた住宅街を歩いていた。


 大きな工場ではない。


 白い壁の、どこにでもありそうな建物。


 玄関先には小さな花壇があり、風に揺れるラベンダーがやさしく香っている。


 入口には、木製の看板。


 「織工房 ゆい


 「工房……?」


 澪が小さく首をかしげる。


 その時、中から軽やかな機械の音が聞こえてきた。


 カタン……。


 カタン……。


 規則正しく、どこか懐かしい音だった。


 ◇


 入口には「見学歓迎」の札が掛かっていた。


 蒼真が声を掛けると、七十代ほどの女性が笑顔で迎えてくれた。


 「旅の方?」


 「はい。」


 「しまなみ海道を歩いてきました。」


 「それは遠くから。」


 女性は目を細めた。


 「よかったら、少し見ていきませんか。」


 ◇


 工房の中には、数台の織機が並んでいた。


 一本一本の糸が、ゆっくりと布へ変わっていく。


 派手な音はない。


 ただ、一定のリズムだけが工房を満たしている。


 カタン。


 トン。


 カタン。


 「きれい……。」


 潮は思わず息をのんだ。


 白い糸が少しずつ重なり、一枚の布になっていく。


 それはまるで、雪が静かに積もる景色のようだった。


 ◇


 「一本の糸だけでは、布にはなりません。」


 女性は織機に手を添えながら話す。


 「縦糸だけでも。」


 「横糸だけでも。」


 「ほどけてしまう。」


 蒼真は静かに聞いている。


 「だから、お互いを支え合いながら織るんです。」


 女性は一本の糸を指先でつまむ。


 「強く引っ張りすぎても切れる。」


 「ゆるすぎても形にならない。」


 「ちょうどいい力で結ばれて、初めて丈夫な布になります。」


 ◇


 その言葉を聞きながら、蒼真は旅を思い返していた。


 向島の宿。


 因島の祭り。


 大山祇神社。


 伯方島のおばあさん。


 造船所の老人。


 自転車屋の店主。


 一人ひとりとの出会いが、一本の糸なら――


 この旅は今、少しずつ一枚の布になり始めているのかもしれない。


 ◇


 「実はね。」


 女性は棚から一枚の白いタオルを取り出した。


 まだ何の刺繍も入っていない。


 まっさらな一枚だった。


 「完成したばかりなんです。」


 澪がそっと触れる。


 ふわりとした感触。


 まるで雲に触れたようだった。


 「真っ白ですね。」


 女性は優しく笑う。


 「ええ。」


 「でも、私は真っ白だから美しいとは思わないんです。」


 四人は女性の言葉に耳を傾ける。


 「このタオルは、毎日使われます。」


 「顔を拭いて。」


 「汗をぬぐって。」


 「赤ちゃんを包んで。」


 「誰かが泣いたとき、涙を拭くかもしれない。」


 「だから、本当に美しくなるのは、使われてからなんですよ。」


 工房に静かな時間が流れた。


 ◇


 タケルが、穏やかな声で言う。


 「神具も同じだ。」


 「飾られているだけでは意味を持たない。」


 「人が願いを託し、人が手を合わせてこそ、その役目を果たす。」


 女性は驚いたようにタケルを見つめ、ゆっくりとうなずいた。


 「そうですね。」


 「道具も、人も、誰かのために使われてこそ、生きるんですね。」


 ◇


 帰り際、女性は四人に細い糸を一本ずつ手渡した。


 「商品ではありません。」


 「織り始める前の糸です。」


 「よかったら、旅日記に挟んでください。」


 蒼真は両手で受け取る。


 細く、頼りなく見える一本の糸。


 けれど、この一本が何千本も集まって、あの丈夫なタオルになる。


 旅もきっと同じだ。


 一つの出会いは小さい。


 でも、その積み重ねが人生という布を織っていく。


 ◇


 工房を出ると、夕方の風がラベンダーを揺らした。


 蒼真は旅日記を開き、糸をそっとページに挟む。


 そして、新しい言葉を書き添えた。


 > 『一本の糸は細い。』


 少し考えて、続ける。


 > 『それでも、誰かと結ばれることで、人を包む布になれる。』


 夕暮れの今治の町は、ゆっくりと茜色へ染まり始めていた。

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