第八話 旅の速さ
商店街を抜けると、橋へ向かう道沿いに小さな自転車店があった。
木の看板には、少し色あせた文字でこう書かれている。
「しまなみサイクル みなと」
店の前には、色とりどりの自転車が整然と並び、壁には空気入れや工具がきれいに掛けられていた。
ちょうど一人のサイクリストが店先でタイヤの空気を入れてもらっている。
店主は六十代くらいだろうか。
日に焼けた顔で、自転車の車輪を軽く回しながら笑った。
「よし、これで大丈夫。」
「ありがとうございます!」
若いサイクリストは深く頭を下げ、颯爽と走り去っていく。
その背中を見送りながら、店主はぽつりとつぶやいた。
「気をつけてな。」
その声は追いかけるでもなく、引き止めるでもなく、ただ風に乗って旅人の背中へ届いていった。
◇
蒼真たちも店の前で立ち止まる。
店主が笑顔で声を掛けた。
「歩き旅かい?」
「はい。」
「珍しいねぇ。」
「最近は自転車の人が多いから。」
陸が少し照れながら答える。
「僕たち、歩くのが好きなんです。」
「いいじゃないか。」
店主は嬉しそうに頷いた。
「旅は競争じゃない。」
「早く着くことより、何を見つけるかだからね。」
◇
店の奥から、冷えた麦茶を人数分持ってきてくれた。
「暑かっただろう。」
「ありがとうございます。」
コップについた水滴が陽射しにきらりと光る。
ひと口飲むと、香ばしい麦の香りが体に染み渡った。
「生き返る……。」
澪が思わず笑う。
店主もつられて笑った。
「旅人の『おいしい』は最高の褒め言葉だ。」
◇
店内には、しまなみ海道の大きな地図が貼られていた。
その横には、旅人たちの写真。
海外から来た家族。
年配のご夫婦。
制服姿の高校生。
小さな子ども。
「みんな、この道を走ったんですね。」
潮が見入る。
「そう。」
店主は写真を眺めながら言った。
「でもね。」
「写真を撮る場所はみんな違う。」
「橋の上が好きな人。」
「海ばかり撮る人。」
「猫を追いかける人。」
「パン屋に寄り道ばかりする人。」
四人が思わず笑う。
「寄り道も旅の一部なんですね。」
「むしろ、寄り道が旅なんだよ。」
店主はいたずらっぽく目を細めた。
◇
そのとき、一台の自転車が店の前に止まった。
高校生くらいの女の子だった。
「こんにちは!」
「こんにちは。」
「おじちゃん、ブレーキ見て。」
「はいはい。」
慣れた手つきで点検を始める。
「毎日乗るからこそ、毎日見てやらないとな。」
女の子は照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。」
「気をつけて帰るんだよ。」
「はーい!」
軽やかなベルの音を鳴らしながら、女の子は坂道を下っていった。
その姿を見送りながら、蒼真はぽつりとつぶやく。
「ここって、自転車屋さんというより……。」
店主は笑って答えた。
「旅人と町の人の休憩所かな。」
◇
壁際には、小さなノートが置かれていた。
『旅人ノート』
自由に書いてください、とある。
蒼真はページをめくる。
「また来ます。」
「向かい風も思い出になりました。」
「島の人がみんな優しかった。」
世界中の言葉で、たくさんの感謝が綴られている。
店主が言う。
「もう二十年以上になるかな。」
「読み返すとね、店が旅してるみたいなんだ。」
◇
蒼真はペンを借り、一ページに静かに書いた。
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歩いていると、風の音が聞こえます。
立ち止まると、人の声が聞こえます。
この町でいただいた麦茶の味を、きっと忘れません。
ありがとうございました。
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名前は書かなかった。
それでも、この場所へ来た証は残る。
店主はページを閉じると、大切そうにノートを棚へ戻した。
「また歩いておいで。」
「はい。」
蒼真は笑顔で頷く。
「今度は、もっとゆっくり。」
店主は満足そうに笑った。
「それがいい。」
「しまなみは、急ぐ道じゃないから。」
◇
店を出ると、午後の風が少しだけ涼しくなっていた。
商店街の向こうでは、子どもたちの笑い声が聞こえる。
蒼真は旅日記を開き、新しい一文を書き加えた。
『旅には速さがある。でも、心が景色に追いつく速さは、人それぞれでいい。』
そのページを閉じたとき、一枚の木の葉が風に乗って旅日記の間へ舞い込んだ。
蒼真はそっとその葉を挟む。
栞のように。
この日の風まで、一緒に持ち帰れるように。




