第三話 縁側の梅干し
縁側へ上がると、潮風が軒先をやさしく吹き抜けた。
風鈴が、ちりん、と一度鳴る。
庭先には大きな梅の木。
その木陰で、竹ざるいっぱいに並べられた梅が夕日に照らされていた。
「きれい……。」
澪が思わず声を漏らす。
赤く色づいた梅が、宝石のように輝いている。
「今年は天気が続いたからね。」
おばあさんは嬉しそうに梅を見つめた。
「いい色になったよ。」
◇
ほどなくして、湯気の立つ急須と湯のみが運ばれてきた。
湯のみには、ほんのり柑橘の絵柄が描かれている。
「熱いから、気をつけて。」
お茶をひと口含むと、やさしい香ばしさが口いっぱいに広がった。
「おいしい。」
陸がほっと息をつく。
歩き続けた体から、少しずつ力が抜けていく。
◇
「旅はどこまで?」
「今治まで歩く予定です。」
蒼真が答えると、おばあさんは驚いたように目を丸くした。
「歩いて?」
「若いっていいねえ。」
四人は照れくさそうに笑う。
「でもね。」
おばあさんは静かに続けた。
「昔は歩くのが当たり前だったんよ。」
「橋もなかったし、船を待つ時間も長かった。」
「だから、お弁当には必ず梅干しを入れたもんじゃ。」
◇
「どうして梅干しなんですか?」
潮が尋ねる。
おばあさんはざるの梅を一つ手に取った。
「傷まんから。」
「それもある。」
「でも、一番はね。」
少し笑って言う。
「無事に帰ってこられるように、って願いを込めて入れるんよ。」
四人は顔を見合わせた。
「願い……。」
「そう。」
「お腹をこわさんように。」
「暑さに負けんように。」
「元気で帰ってこられるように。」
「梅干し一つにも、そんな願いが入っとる。」
◇
おばあさんは小さなおにぎりを握り始めた。
炊きたてのご飯。
真ん中に、赤い梅干し。
そして朝見たばかりの伯方の塩を、指先でひとつまみ。
ころころと転がしながら、丸く形を整えていく。
「はい。」
四人へ一つずつ差し出した。
蒼真は両手で受け取る。
まだ、ほんのり温かい。
ひと口かじる。
ふっくらしたご飯。
塩のやさしい旨み。
そして梅干しの酸っぱさが、ゆっくりと広がる。
「……おいしい。」
思わずそうつぶやくと、おばあさんは目を細めた。
「それはね。」
「塩がおいしいからでも、梅がおいしいからでもない。」
「誰かの『気をつけてね』が入っとるけんよ。」
その言葉に、四人はしばらく何も言えなかった。
◇
縁側の向こうでは、夕日が海へゆっくりと沈んでいく。
オレンジ色に染まった瀬戸内海は、昼間とはまるで違う表情を見せていた。
蒼真はぽつりと言う。
「この旅で、何度『気をつけて』って言ってもらっただろう。」
澪が笑う。
「『またおいで』もね。」
陸が続ける。
「『いってらっしゃい』も。」
潮は静かに頷いた。
「旅って、歩いた距離じゃなくて。」
「かけてもらった言葉の数なのかもしれない。」
タケルは満足そうに微笑んだ。
「その言葉を忘れぬ者は、どこへ行っても帰る場所を失わない。」
◇
帰り際、おばあさんは小さな包みを手渡した。
竹の皮で丁寧に包まれている。
「明日のお昼に食べなさい。」
開けると、小さなおにぎりが四つ並んでいた。
「そんな、いただけません。」
蒼真が慌てると、おばあさんは首を振る。
「旅人には旅人のお弁当がいる。」
「その代わり。」
「また、この島へ帰っておいで。」
その笑顔は、どこか向島の宿の女将にも、大山祇神社で落ち葉を掃いていた女性にも重なって見えた。
四人は深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「いってきます。」
おばあさんは縁側から大きく手を振る。
「うん。」
「いってらっしゃい。」
その声に送られながら、四人は夕暮れの道を歩き始めた。
潮風が背中を押す。
竹の皮越しに伝わるおにぎりのぬくもりは、不思議とまだ残っていた。




