第一話 橋の上の約束
朝。
大三島橋の上には、まだ人影はまばらだった。
海から吹き上げる風が欄干を渡り、橋全体が小さく歌っているように響く。
蒼真は立ち止まり、ゆっくりと海を見下ろした。
潮は穏やかだ。
朝日を受けた水面が、無数の銀色の糸になって揺れている。
「この橋も……。」
陸が欄干へ手を置く。
「もう景色の一部なんだね。」
タケルは頷いた。
「橋は島を変えた。」
「だが、島は橋に負けなかった。」
四人は静かに耳を傾ける。
「橋ができても。」
「船は今も走る。」
「港には朝市が立つ。」
「祭りも続く。」
「人は新しい道を受け入れながら、昔からの道も大切にしてきた。」
◇
橋の途中、小さな展望スペースに木製のベンチがあった。
そこへ腰掛けると、一人の老人が双眼鏡を覗いていた。
首から古びたカメラを提げ、麦わら帽子をかぶっている。
「おはようございます。」
蒼真が声を掛けると、老人は笑顔で帽子を上げた。
「旅かい?」
「はい。」
「しまなみ海道を歩いています。」
「いい旅をしとる顔じゃ。」
老人はそう言って海を指差した。
「毎朝ここへ来るんじゃ。」
「写真を撮るためですか?」
澪が尋ねる。
老人は首を横に振る。
「いや。」
「同じ景色を見に。」
四人は少し不思議そうな顔になる。
「同じには見えんじゃろ。」
老人は笑った。
「雲が違う。」
「潮が違う。」
「船が違う。」
「光も違う。」
「だから毎日来ても、一度として同じ朝はない。」
その言葉に、蒼真は大山祇神社で出会った女性を思い出した。
『同じ朝は一度もありませんよ。』
旅で出会った言葉同士が、少しずつつながっていく。
◇
老人は双眼鏡を蒼真へ差し出した。
「見てごらん。」
覗いてみる。
遠く、小さな漁船が一隻。
その船の甲板で、漁師が大きく手を振っていた。
「見える?」
「はい。」
「知り合いですか?」
「毎朝会う人じゃ。」
「話したことは?」
「ない。」
老人は楽しそうに笑う。
「でも、毎朝手を振る。」
「もう十年になる。」
陸が思わず笑う。
「名前も知らないのに?」
「知らん。」
「でも、それで十分じゃ。」
「名前を知らなくても、人は誰かを待てるし、誰かを喜ばせることもできる。」
◇
その時、海の向こうから、漁船の汽笛が一度だけ鳴った。
老人も帽子を取って、大きく手を振る。
船の上の人影も、同じように手を振り返した。
ほんの数秒の出来事。
けれど、そのやり取りには十年という時間が流れていた。
澪が小さくつぶやく。
「約束してなくても、続く約束ってあるんだね。」
老人は照れくさそうに笑う。
「そういうもんじゃ。」
「人の縁っていうのは。」
◇
橋を歩き始めた蒼真は、旅日記を開いた。
今日のページには、たった一行だけ書いた。
> 『約束とは、言葉で交わすものだけではない。今日も会えたね、と笑い合える毎日も、きっと約束なのだ。』
ページを閉じると、潮風がやさしく吹き抜ける。
その風は、向島、因島、大三島を通り過ぎ、これから向かう伯方島へと続いていた。
四人の旅もまた、新しい島、新しい出会いへと静かに歩み始めるのだった。




