第54話 運命の悪戯
山を登るたびに、空気は薄くなり、肺が思うように働かない。胸を大きく上下させながら、それでも一行は前に進んでいた。山頂に近づくにつれて天候は激しさを増し、黒雲が渦を巻くように空を覆う。吹きつける風は人を嘲笑うかのように冷たく、雨粒が斜めに叩きつけてきた。
「……立ち止まるな!身体を傾けろ!」
ゲイルの声が嵐の音にかき消されそうになる。
全員が前もって用意していた厚手の皮のコートを着込んでいたが、それでも雨風の侵入を完全には防げず、体温は確実に奪われていく。唇を青紫に染めながら、コリーが何度も立ち止まりそうになり、ナカムラが背中を押して支えた。
「人が来ることを拒んでいるみたいな山ですねぇ」
コリーが吐息混じりに言うと、誰も否定できなかった。
休み休み進まざるを得ない。小さな窪地を見つけるたびに焚き火を起こし、濡れた衣を乾かし、温め合っては再び歩き出す。その繰り返しだった。
そして調査の結果も、容赦なく彼らを追い込む。さらに上流に進めば進むほど、川の毒素濃度は強まっていった。ドクカブトの変異は、ただ環境に適応したにすぎない。つまり原因は別にある。しかも山脈のさらに上層――彼らがこれから足を踏み入れようとしている場所に。
「……なら、答えはこの先にある」
ナカムラは雨に濡れた包丁の柄を握り直し、仲間を鼓舞するように言った。一行は荒れ狂う天候をかき分け、ひたすら山頂を目指す。
どれほどの時間を歩いただろうか。気づけば、空の様子が一変していた。さっきまでの暴風雨が嘘のように収まり、山頂付近は奇妙な静寂に包まれていた。雲の切れ間から光が差し込み、視界が一気に開ける。
そこに広がっていたのは――湖だった。
雪解け水や雨風が流れ込み、長い年月をかけて形成された天然の湖だろう。美しく澄んだ水で出来た湖のはずだった――
ナカムラは目を疑う。湖全体が黒緑色に染まっていたのだ。
「……まさか、これが」
顔をしかめ、吐き気を抑えるように口を押さえる。
濃縮された毒素。その量は今まで見た中でもっとも濃い、普通の人間は近づいただけで命に影響があるだろう。
「ここから先は俺だけ行く。皆は待機だ」
ナカムラは短く告げた。
仲間が止めようとするのも振り切り、彼は湖へと足を運ぶ。
近づいていくと、あってはならない物がそこにあった。
「なんで……ここに……」
湖の傍にこの世界にたどり着いた時にどこかへ行ってしまったはずのクーラーBOXが転がっていた。
中身は空になっており、周囲にはクーラーBOX以外何もなかった。
整わない呼吸のまま、湖に近づき、湖の中を覗く。
――湖底には巨大な生物の抜け殻が沈んでいた
その一つ一つが巨大だ。先ほど討伐したドクカブトなど子犬に見えるほどのサイズ。大きいもので数十メートルはある。小さな抜け殻もあれば、少しずつ大きな抜け殻へと変わっていっている。おそらく単独の個体なのだろう。
しかも形状が奇妙だった。長細いトカゲのような胴体に、背から突き出した羽根のような構造。脱皮した直後のように空洞になり、湖底で重なり合っている。
「……竜……」
ナカムラは呟いた。
抜け殻の形状から導き出せる答えはただ一つ――竜種の存在。湖底には数えきれないほどの殻が沈んでいる。もし成長した本体が健在なら、災厄どころの話ではない。しかし湖と周辺には生物は見当たらない。
「ってことは……」
ナカムラの脳裏に最悪の想像が浮かぶ。
――本体はすでにここを離れ、川を下っているのではないか。川を下った先にあるのは都だ。
顔を強ばらせたまま戻ってきたナカムラを、仲間たちが取り囲む。
「どうだった?」
「……引き返すぞ。今すぐだ」
ナカムラの声は低く重い。
「湖には竜の抜け殻が沈んでいた。数え切れないほどだ。あれがここにいるなら脅威だが、辺りにはいなかった。最悪、都の方角に向かっている」
空気が凍りつく。
「すれ違った可能性もある。俺たちが山頂に至るまでの足止めされていた間に、下ったのかもしれん。どのみち、都が危険だ」
「……すぐに戻ろう」
ゲイルが短く言い、全員が無言で頷いた。
一行は荷をまとめ、急ぎ足で下山を開始する。再び雨風に苦しめられながらも、彼らの足取りには迷いがなかった。
急ぐしかない、都を守るために。
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