第53話 不遇の夢
おっさんは、夢を見ていた。
どこまでも青く澄んだ水の中、一匹のフグがぷかりと浮かび、寝息を立てている。まるで布団に包まれているかのように、安心しきった顔をして。
これは俺がフグの夢を見ているのか? それとも、フグがおっさんの夢を見ているのか?
そんな禅問答のようなことを考えていると、いつの間にか、そのフグはまな板の上に乗っていた。周囲に誰もいないはずなのに、影のような手が現れ、包丁を握る。その切っ先がフグへと迫る。
しかし、寝ていたはずのフグは目を見開き、歯をむき出しにしてその手に噛みついた。
――ッ
声を上げるより早く、フグは海へと逃げ込んでいった。波間に消えるその背中から、ひとつの言葉だけが残った。
――諦めない。
おっさんは、その力強さに胸を打たれた。
目を覚ますと、テントの中だった。
重いまぶたを上げると、すぐ隣にコリーが座っているのが目に入る。髪は乱れ、目の下には濃い隈ができていた。おそらく徹夜で看病していたのだろう。
「……生きてるな、俺」
ナカムラが掠れた声を出すと、コリーは驚いたように顔を上げ、安堵の笑みを浮かべた。
「やっと目を覚ましたんですか……! ほんと心配したんですよ!!」
身体を動かそうとした瞬間、左腕から激痛が走る。
「うっ……!」思わず声が漏れる。
すぐにコリーが眉をひそめた。
「無理しないでください。毒はまだ残ってるかもしれないんですから。早くトイレ行って、排泄しててきてください。地獄の痛みの始まりですよっ」
泣きながら笑っている複雑な表情でコリーが外へ案内する。
「あ、あぁ……」
言われるがまま、ナカムラはふらつきながらテントを出て、地獄の痛みに耐えながら用を足そうとした。
だが、戻ってきたナカムラは首をかしげていた。
「普通に出ただけだったぞ。なんも変わらん」
「え? そんなはず……」
コリーも首をかしげた。
不思議に思ったナカムラは、腰の袋から取り出した小瓶を開けた。中身は以前作った麻痺毒の薬液。指先に少量つけて、舌で舐めてみる。
「うっ……まずっ!」
思わず顔をしかめる。だが、痺れも痛みも、ましてや吐き気すら起きなかった。
「おいおい、まさかの無傷か?」
「ナカムラさん! なんでそんな危険なことするんですか!ばかなんですか!?変態なんでしゅか!?」
コリーが半泣きで怒鳴るが、結果は明らかだった。
ナカムラは毒を分解できる身体になっていた。
その後、仲間たちも駆けつけ、無事な姿を見て胸を撫で下ろした。
イザベラは信じられないと首を振り、リンはじっとナカムラを見つめながら
「魔獣?」
小声で呟く。
ゲイルは大笑いした。
「毒が効かねぇ体か!もう人間じゃねえな!」
エリダイトは興奮のあまり書き殴るようにメモをとっていた。
「毒耐性を超えて……体内での分解機能!? これは学会に発表したら歴史が変わる!」
「発表すんじゃねえ!」
ナカムラは即座にツッコむ。
問題はドクカブトの死体だった。巨体は討伐現場にそのまま横たわり、血と毒を川へ流し込み続けていた。このままでは周囲の生態系にさらなる影響を及ぼしかねない。
「処理しないと、他の動物までおかしくなるな」
ナカムラはそう言うと、包丁を手に取った。
仲間が止める間もなく、巨体に切り込む。紫色に濁った肉を捌き進めていくと、内臓の奥から青紫色の結晶が抽出された。
そして――
残っていた肉の紫がみるみる消え、正常な色合いに戻っていったのだ。
「……まさか、毒が抜けた?」
イザベラが息を呑む。
ナカムラは肉の一部を切り取り、火で炙る。
恐る恐る口に運んでみると、苦みはなく、普通の獣肉の味がした。
「食えるな」
「え、今、普通に食べたんですか!?」
コリーが目を丸くする。
「どうやら俺は、毒を分解できるだけじゃなく、対象そのものから毒を取り除けるみたいだ」
ナカムラは結晶を見つめながら呟いた。
一同は、その場でしばらく話し合った。
ドクカブトが原因で川が汚染されていた可能性は高い。だが、もしこいつ一体だけなら、ここで収束するはずだ。
「でも、上流、まだ、見てない」
リンが不安そうに口にした。
ナカムラは頷く。
「だな。原因かどうかまで見届けないとな」
ゲイルが口角を上げる。
「なら、さらに上を目指すか」
こうして一行は、山頂付近の調査を目指すことを決意した。
新たに得た力を携え、毒の源を突き止めるために――。




