天正三年正月――放たれる三本の矢
正月も半ばを過ぎたころ、少弐は兵庫津を発った。
行き先は厳島。
毛利家への正月の挨拶だった。
羽柴との約定がある以上、毛利との商いには制限がある。兵糧や武器など、軍用に転じる品の供与は相互不可侵の間は慎まなければならない。
だが、少弐が毛利家の者に会うことまで禁じられているわけではなかった。
そもそも今回は瀬戸内会議の使者ですらない。
軍議をするつもりもなければ、密約を結ぶつもりもない。
正月祝いを持って、昔馴染みに顔を見せる。
そして少し、相談したいことがある。
ただ、それだけだった。
「元就公の顔を見てくる」
少弐はそう言って出ていった。
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厳島へ着くと、まず社へ参った。
中国の戦がこれ以上広がらぬように。
播磨で始まった復興が、今度こそ続くように。
それから毛利へ到着を知らせた。
毛利元就は元気そうだった。
もちろん老人である。
以前より老いて見えるところもある。
だが少弐と話す声には力があり、頭もはっきりしている。
少弐は安心した。
「元就公。正月のお祝いに参りました」
「わざわざ来たか」
「戦の話ではありませんよ」
「そなたが来ると、だいたい妙な話になる」
「今日は本当に普通です」
元就は信用していない顔をした。
少弐は笑いながら持参した正月祝いを差し出した。
やがて近況の話になった。
播磨の復興。
瀬戸内会議。
荒れた田畑。
西国艦隊をどうするか。
少弐家と播磨の財を分けたこと。
そんな話をしたあと、少弐はふと思い出したように言った。
「そういえば、去年もう一人、生まれまして」
「子か」
「はい」
元就の表情が明るくなった。
「男か、女か」
「男です」
「それはめでたい」
長男の雲丸に続いて、六月に生まれた鐘丸。
二人とも元気であると伝えると、元就は何度も頷いた。
「ならば、もう一人じゃな」
「何がです?」
「男なら三兄弟がよい」
少弐は嫌な顔をした。
「簡単に言わないでください」
「わしが産むわけではないからな」
「余計に簡単に言わないでください」
元就は声を上げて笑った。
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そこで少弐は思い出した。
「三人といえば」
「なんじゃ」
「元就公の三本の矢という話がありますね」
元就の眉が動いた。
「なんじゃ、それは」
「知らないんですか」
「知らん」
少弐の方が驚いた。
話して聞かせた。
一本の矢なら簡単に折れる。
三本を束ねれば折れない。
ゆえに兄弟は力を合わせよ――。
毛利元就が子供たちにそう教えたという話である。
元就はしばらく黙っていた。
「……誰が言った」
「知りません」
「わしが言ったことになっておるのか」
「なっています」
「勝手なことを」
そう言いながらも、元就は面白がっていた。
ちょうど近くに矢があった。
元就は一本取った。
さらに二本。
三本を手にする。
少弐は笑った。
「それですよ」
元就は三本を束ねて握った。
「こうか」
「そうです」
元就は折るような真似をした。
確かに一本より折れにくい。
「なるほど」
「いい話でしょう」
「悪くはない」
元就は答えた。
だが、三本の矢を眺めているうちに首を傾げた。
「しかしな」
「はい」
「そもそも矢は、折ったり束ねたりするものではなかろう」
少弐が黙った。
元就は一本を抜いた。
その鏃を前へ向ける。
「放つものじゃ。」
少弐は笑った。
「確かに」
「三本あれば、三本とも放てばよい」
元就は残る二本も手に取った。
一本目を右へ向ける。
二本目を正面へ。
三本目を左へ。
三本はもう束ねられていなかった。
それぞれ違う方向を向いている。
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「子も同じではないか」
元就は言った。
「三人おれば、三人まとめて折れぬよう縛っておくのではない」
一本の矢を少弐へ見せる。
「放してやればよい」
「どこへ?」
元就は笑った。
「好きなところへ」
少弐は少し意外そうに元就を見た。
「好きなことへ向かって」
一本。
「好きなところへ飛んで」
二本。
「好きに突き進む」
三本。
元就は三本の矢を並べた。
「そういう世に、早くなるとよいな」
少弐は何も言わなかった。
戦国の世に生きてきた男の言葉だった。
子供は家のために使われる。
婚姻する。
養子へ出される。
領国を守る。
戦場へ送られる。
生まれた家によって、飛ぶ方向まで決められる。
元就自身、それを誰よりよく知っている。
吉川へ。
小早川へ。
毛利へ。
自分の子らを、それぞれ必要なところへ配置してきた男だった。
だからこそ、その老人が、
「好きなところへ飛べばよい」
と言うのが、少弐には妙に残った。
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「じゃあ元就公」
少弐が三本の矢を見ながら言った。
「やっぱり三人目を作れって話ですか」
「そこへ戻るか」
「元就公が始めた話でしょう」
「二本でも飛ぶぞ」
「だったら今のままでいいじゃないですか」
「三本あった方が賑やかじゃ」
「無責任だなあ」
二人は笑った。
その後は、少弐が本来相談したかった話へ移った。
播磨をどう直すか。
少弐自身は守護になるつもりがないこと。
少弐家の財と瀬戸内会議の財を分けたこと。
戦で職を失った者を四十郎が集め始めたこと。
海の船を、戦うだけの艦隊ではなく交易で自らを養う仕組みに変えようとしていること。
元就は時折問い返しながら、それを聞いた。
特別な会談ではなかった。
密約もない。
軍事の取り決めもない。
ただ、若いころから国をまとめ続けてきた老人に、少弐が自分の悩みを持っていっただけだった。
帰り際、少弐はもう一度元就を見た。
元気そうだった。
また来れば会える。
そう思った。
元就も特別な別れの言葉など口にしなかった。
少弐が去ったあとに残ったのは、先ほど弄んでいた三本の矢だけだった。
束ねられてはいない。
三本とも、それぞれ違う方向を向いている。
折れないために束ねるのではない。
いつか放つ。
好きなものへ向かって。
好きなところまで飛んでいく。
そんな世に早くなるといい。
少弐がこの日、元就から聞いた三本の矢は、そういう話だった。




