天正三年二月――三本の矢、その後
二月。
兵庫津にも、少しずつ春の気配が近づいていた。
清盛館では四十郎が集め始めた新しい家人の選別が進み、瀬戸内会議では播磨復興のための銭と物資の割り振りが始まっていた。
少弐もようやく、
今年は戦ではなく復興の年になる。
そう思い始めていた。
そこへ早馬が来た。
安芸からだった。
少弐は書状を受け取った。
何か交易の話か。
あるいは先月訪ねた件への返事か。
そんな程度に考えて開いた。
だが、そこに記されていた名を見て動きが止まった。
毛利元就、死去。
「……え?」
もう一度読んだ。
間違いではなかった。
先月会ったばかりだった。
普通に話していた。
笑っていた。
鐘丸が生まれたことを喜んでくれた。
男なら三兄弟がよいと言われた。
三本の矢など誰が言い始めたのだと笑っていた。
そして、
――矢は束ねるものではない。
――放つものだ。
――好きなことへ向かい、好きに突き進める世に早くなるとよい。
あのときの元就に、死期が迫っているような様子はなかった。
少弐は書状を畳んだ。
「四十郎殿」
「はい」
「安芸へ行く」
四十郎は理由を聞かなかった。
少弐の顔と、手にした書状だけで察した。
「こちらはお任せを」
それだけだった。
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少弐は再び厳島へ向かった。
一月には正月祝いを持って渡った海だった。
今度は弔いだった。
船の上で、少弐はほとんど喋らなかった。
わずか一月。
たったそれだけで、同じ航路がまるで違って見えた。
毛利家ではすでに葬送の準備が進んでいた。
吉川元春。
小早川隆景。
毛利輝元。
一門。
重臣。
国人。
寺社。
次々と人が集まっている。
少弐は瀬戸内会議を代表して来たわけではなかった。
一人の知己として来た。
香を供え、静かに頭を下げた。
言葉はなかった。
先月は、また会えると思って帰った。
だから別れらしい別れさえしていない。
それがかえって少弐には堪えた。
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葬儀を終えたあと、毛利輝元から声をかけられた。
「少弐殿。少しよろしいか」
二人は場所を移した。
輝元も疲れていた。
祖父を失ったばかりである。
だが今や、悲しんでいるだけでは許されない立場だった。
少弐が頭を下げる。
「先月、お会いしたばかりでした」
「聞いております」
輝元は答えた。
「祖父も喜んでおりました」
少弐は少し黙った。
「お元気そうだったのですが」
「我らもそう思っておりました」
それ以上は言わなかった。
人の死というものは、そういうものなのだろう。
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やがて輝元が地図を出した。
少弐はそれを見て、少し意外に思った。
葬儀の直後である。
しかし輝元はもう次を考えていた。
「少弐殿」
「はい」
「これから西は、少々面倒になります」
少弐は地図を見る。
「羽柴ですか」
「それだけならば、まだ分かりやすい」
輝元の指が但馬へ行く。
次に美作。
備中。
備後。
そして山陰。
「祖父が死んだ」
輝元は淡々と言った。
「これだけで動く者がおります」
毛利家中がすぐ割れるという意味ではない。
元春もいる。
隆景もいる。
輝元も家督を継いでいる。
毛利家の中核は残っている。
問題は、その外側だった。
「これまで祖父の名で納得していた者が、同じ条件を私にも認めるとは限りませぬ」
国人。
水軍。
寺社。
境目の城主。
尼子に心を残す者。
織田へ通じようとする者。
逆に、織田を恐れて毛利へ近づこうとする者。
元就という名がなくなっただけで、皆がもう一度、自分の立場を計算し始める。
「そして羽柴殿も、それを見逃さぬでしょう」
少弐は頷いた。
秀吉本人は東国情勢への対応で中国方面を離れている。
しかし秀長が残っている。
羽柴の軍勢が消えたわけではない。
「東が落ち着けば、秀吉殿は戻ってくる」
輝元が言った。
「でしょうね」
「戻らずとも、秀長殿は動けます」
少弐は地図を見つめた。
一月に元就と、
中国が静かになればいい。
そんな話をしたばかりだった。
もう怪しくなっていた。
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「備前は?」
輝元が尋ねた。
少弐は答えた。
「宇喜多一氏の国ではなくしました」
播磨の生き残った諸家を備前へ移した。
宇喜多には荒廃地の復興を負わせた。
瀬戸内会議にも参加させた。
「少なくとも以前のように、宇喜多殿一人の判断で羽柴勢を通すことは難しくなっています」
輝元は頷いた。
「それは助かります」
だが続けた。
「同時に、備前が一枚ではなくなったということでもある」
少弐は顔を上げた。
「はい」
そこは少弐も分かっていた。
宇喜多の力を削いだことで、備前は安全になった。
しかし強力な一人の領主が統制する土地でもなくなった。
平時なら瀬戸内会議で調整できる。
戦になったとき、それがどうなるかは分からない。
「だからお願いがあります」
輝元が言った。
少弐は身構えた。
「兵糧や武器なら駄目です」
羽柴との約定がある。
「分かっております」
輝元は苦笑した。
「少弐殿を困らせるつもりはない」
そして地図から手を離した。
「備前を戦場にしないでいただきたい。」
少弐は黙った。
毛利に味方してほしい、ではない。
羽柴を攻めてほしい、でもない。
備前を通路にするな。
毛利にも羽柴にも自由に使わせるな。
瀬戸内会議が成立したのなら、その力で境界を管理してほしい。
それが輝元の求めだった。
「毛利勢も?」
少弐が確認した。
輝元は少し考えてから答えた。
「こちらだけ自由に通せとは申しませぬ」
少弐はそこで初めて頷いた。
「それなら評定に出せます」
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さらに輝元は言った。
「もう一つ」
「まだあるんですか」
「これはお願いというより、覚悟しておいていただきたい」
輝元の指が中国地方全体をなぞった。
「これから、いろいろな者が兵庫津へ行くでしょう」
少弐は嫌な予感がした。
「どういう意味です」
「毛利につくべきか。織田につくべきか。どちらにもつかぬべきか。領地を保証してほしい。争いを仲裁してほしい。船を通してほしい」
「待ってください」
「宇喜多殿の一件を見た者は多い」
輝元は続けた。
宇喜多を滅ぼさなかった。
播磨諸家を備前へ移した。
賠償を取り消した。
領国を組み替え、会議へ入れた。
つまり瀬戸内会議は、すでに単なる播磨の寄合ではなく、
敗れた者でも話を持ち込める場所
として知られ始めている。
少弐は額を押さえた。
「やめてほしいなあ……」
輝元が少し笑った。
「祖父なら、面白がったでしょうな」
その言葉で、少弐も笑ってしまった。
「元就公なら、たぶん私に全部押しつけますよ」
「あり得ます」
二人は少しだけ笑った。
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帰る前、少弐は輝元に一つだけ尋ねた。
「輝元殿」
「何でしょう」
「三本の矢の話、知っています?」
輝元は妙な顔をした。
「祖父が兄弟は結束せよという話でしょうか」
「やっぱりあるんだ」
「何か?」
少弐は少し迷った。
そして首を振った。
「いや。先月、元就公に聞いたら」
少弐は手で矢を放つ真似をした。
「『矢は束ねるものではない。放つものだ』って」
輝元は黙った。
「好きなことに向かって、好きに突き進める世に早くなるといい、と」
輝元はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「祖父らしくないようで――」
少し考える。
「祖父らしいですな」
少弐も頷いた。
元春がいる。
隆景がいる。
輝元がいる。
三本はまだ残っている。
だが、その三本を束ねていた老人はもういない。
これからは自分たちで的を見つけ、自分たちで飛ばなければならない。
少弐は毛利家を辞した。
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帰りの船から厳島が遠ざかっていく。
一月には、元就がいた。
二月には、もういない。
だが少弐が兵庫津へ持ち帰ることになったのは、元就の死という報せだけではなかった。
毛利輝元の言葉だった。
これから中国の者たちが動く。
毛利へ。
羽柴へ。
あるいは、そのどちらでもない場所へ。
そして、その「どちらでもない場所」として――
まだ播磨の復興さえ終わっていない瀬戸内会議が、否応なく見られ始めていた。
元就が最後に笑って話した三本の矢は、束ねられる間もなく、
いよいよ、それぞれの方向へ放たれようとしていた。




