漣の果て――播磨停戦案
姫路の寺に、再び人が戻った。
かつて黒田・小寺勢が敗走の途中で身を寄せ、それでも危険だとして須磨まで退いた寺である。
今、その境内にはスリフォンの兵がいた。
竹田、生野、三木、姫路。
各地で敗れ、スリフォンに拾われた者たちだった。
彼らは逃げてきた道を逆に進み、ついに姫路まで戻った。
寺の鐘が鳴る。
須磨で「漣の計」の始まりを告げた鐘とは違う。
今度の鐘は、帰還を告げていた。
だが、その余韻が消えないうちに新しい知らせが届いた。
羽柴から使者が来たのである。
戦ではない。
停戦の申し入れだった。
---
使者は姫路まで来なかった。
まず前線へ停戦交渉を求める旨を伝え、その内容を記した書状を届けた。
スリフォンは封を確認すると、すぐに早馬を出した。
「須磨へ」
書状は西から東へ走った。
少弐へ。
黒田へ。
そして播磨衆へ。
須磨を出た軍勢はすでに西へ広がっていたため、主だった者を一度に集めるには時間がかかる。
それでも少弐は命じた。
「集まれる者は須磨へ戻ってもらおう」
話をする場所は、あの寺とした。
羽柴の使者に茶を出した寺である。
---
書状が開かれた。
少弐が読む。
黒田が隣で聞く。
赤松。
宇野。
小寺。
別所旧臣。
播磨の諸将が並んでいた。
最初の条件。
赤松・宇野らの所領を安堵する。
早速、赤松の者の眉が動いた。
黒田が横を見る。
「まだ何も申しておりませぬぞ」
「分かっております」
「なら結構」
少弐が苦笑しながら続きを読んだ。
双方の捕虜を交換する。
これには異論が出なかった。
敵方に捕らわれた者。
戦場で保護された者。
負傷して敵方の寺や陣へ運び込まれた者。
それらを互いに返す。
次。
竹田城を返還する。
座がざわついた。
あの城を巡って、どれほど戦ったか。
落ちた。
取り返そうとした。
また失った。
そして今度は攻めることなく返ってくる。
少弐は少し妙な顔をした。
「ずいぶん遠回りしたな」
誰かが笑った。
黒田だけは真面目に書状を見ていた。
「続けましょう」
次の条件が、この停戦の中心だった。
歴史的な播磨国境をもって双方の境とする。
羽柴勢は播磨から撤退する。
少弐側も、それを越えて追撃しない。
城に残っている羽柴方諸将・兵士についても、安全な撤退を認める。
武器を捨てて捕虜になれというのではない。
旗。
武具。
私物。
それらを携えたまま、定められた道を通って退去する。
少弐方はこれを襲撃しない。
赤松の者が言った。
「つまり、今取り残されている者を帰してほしいということか」
「そうでしょうな」
黒田が答えた。
漣の計で城を囲まず追い越した結果、播磨西方には羽柴方の城兵が島のように残っている。
彼らを救出するために秀吉が再び大軍を動かせば、戦は終わらない。
ならば停戦条件の中で回収する。
合理的だった。
さらに続く。
今後数年間、双方は相互不可侵とする。
具体的な年数については協議。
その期間、羽柴方は播磨へ軍勢を入れない。
少弐・播磨方も、織田方領域へ軍勢を入れない。
そして――。
少弐方は但馬の戦へ関与しない。
ここで黒田の表情が変わった。
「これが向こうの欲しいものですな」
少弐も頷いた。
但馬では明智・山名と毛利が向かい合っている。
羽柴が播磨戦線を畳みたい理由が見えた。
播磨を手放す代わりに、但馬戦線から少弐勢を排除する。
西国艦隊も虎衆も、但馬へ向けさせない。
さらに条件があった。
毛利との通常の商いについては制限しない。
これには少弐が少し身を乗り出した。
毛利との関係そのものを切れという要求ではなかった。
商人。
船。
書状。
通常の商品。
それらの往来は認める。
ただし――。
相互不可侵が続く限り、兵糧・武器その他、直接軍用となる物資を毛利軍へ供与しない。
少弐はしばらく黙った。
「なるほど」
毛利と縁を切れとは言わない。
交易も止めない。
だが戦争には手を貸すな。
羽柴側からすれば、かなり現実的な要求だった。
書状はそこで終わった。
寺が静かになった。
---
最初に口を開いたのは宇野の者だった。
「悪くない」
赤松の者が見る。
「悪くないどころではない」
別所旧臣が続けた。
「竹田まで返すと言っている」
「播磨から兵も退く」
「捕虜も帰る」
昨日までなら考えられない条件だった。
だが黒田はすぐに釘を刺した。
「喜ぶのはまだ早うございます」
皆が黒田を見る。
「これは羽柴殿の降伏ではございませぬ」
黒田は書状を指した。
「但馬への不介入。毛利への軍需物資供与禁止。孤立した羽柴勢の安全な回収。そして数年間の西方安定」
羽柴秀吉も、きちんと取るものを取っている。
播磨でこれ以上兵を失わずに済む。
孤立した将兵を回収できる。
少弐が但馬へ出てくる危険を消せる。
毛利に少弐の兵站能力が加わることも防げる。
そして数年間、播磨方面を気にせずに済む。
少弐が言った。
「向こうにも得があるから、約定になるんだろう」
「その通りです」
黒田が頷いた。
「一方だけが得をする約定は長続きいたしませぬ」
そこで、赤松の者が手を上げた。
「一つよろしいか」
黒田が警戒した顔になる。
「なんでしょう」
「所領安堵という言葉だけは気に入らぬ」
やはりそこだった。
宇野の者まで頷く。
「同感だ」
「だから我らの土地なのだ」
「羽柴殿から頂戴するものではない」
黒田は目を閉じた。
少弐が笑いを堪える。
「官兵衛殿」
「分かっております」
黒田は書状を取り上げた。
「ならば文言を直させましょう」
赤松・宇野の所領を羽柴が「安堵する」のではない。
双方が、赤松・宇野ら播磨諸氏の従前の所領支配を相互に確認し、これを侵さない。
それなら意味が違う。
羽柴が主人として与えるのではない。
停戦する双方が、現状の権利関係を確認する。
赤松の者が考える。
「……それならば」
宇野も頷いた。
「よかろう」
黒田は小さく息を吐いた。
「最初からそう言ってくだされ」
---
今度は少弐が問題を出した。
「毛利との商いだ」
皆が少弐を見る。
「兵糧になるもの、というのが広すぎる」
米。
塩。
味噌。
干魚。
布。
馬。
鉄。
木材。
船材。
平時ならただの商品でも、戦場へ持っていけば軍需物資になる。
「米を一俵売っただけで約定違反と言われたら困る」
黒田も頷いた。
ここは明文化する必要がある。
通常の民間交易は妨げない。
ただし、毛利軍または毛利方の軍事拠点へ向けて、少弐方が意図して大量に兵糧・武器・弾薬・軍船その他の軍需物資を供与することを禁ずる。
そう限定する。
「商いは商い」
少弐が言った。
「戦の手伝いはしない」
それなら分かりやすい。
---
さらに捕虜交換。
竹田城の引き渡し日時。
羽柴方諸将の撤退経路。
撤退中の略奪禁止。
少弐方による追撃禁止。
撤退兵が通過する村への補償。
城を引き渡す際の放火・破壊禁止。
一つ一つ条件が増えていった。
少弐は途中で笑った。
「戦より面倒じゃないか」
黒田が即答した。
「戦を終わらせる方が面倒なのです」
寺の中に小さな笑いが起きた。
だが誰も席を立たなかった。
ここで雑に決めれば、数月後にはまた戦になる。
だから今日一日を使ってでも決める。
---
やがて夕方。
大筋がまとまった。
播磨国境を境とする数年間の相互不可侵。
羽柴勢の播磨撤退。
赤松・宇野をはじめとする播磨諸氏の従前所領の相互確認。
竹田城返還。
捕虜・負傷者の相互返還。
播磨各地に残る羽柴方諸将・兵士の安全な撤退。
撤退中の双方による攻撃・略奪の禁止。
少弐方の但馬戦線への不介入。
毛利との通常交易は維持。ただし相互不可侵期間中、毛利軍への意図的な軍需物資供与は行わない。
少弐は並んだ条件を見た。
須磨で羽柴の使者を送り返したときには、こんな形になるとは思っていなかった。
赤松の者が言った。
「これならば」
宇野も続いた。
「受けてもよい」
小寺勢も異論を唱えない。
別所旧臣も頷いた。
黒田は最後に尋ねた。
「では、これを播磨方の返答としてよろしいですな」
一同が応じた。
少弐は書状を畳んだ。
「では羽柴殿に返そう」
今度は、こちらから使者を出す。
須磨の寺を出た早馬が、西へ走った。
戦を始めるためではない。
戦を終わらせるために。
そしてそのころ姫路では、スリフォンがまだ知らぬまま、次の西進に備えて兵をまとめていた。
漣はまだ動いている。
止めるには、正式な約定が必要だった。
須磨から始まった漣は、ようやく播磨国境を前にして、静かな水面へ戻ろうとしていた。




