城を攻めず――漣、西へ
羽柴勢の後退は、潰走とは少し違っていた。
須磨正面の陣は砕けた。
だが、兵たちはただ西へ逃げ散ったわけではない。
あらかじめ決めてあったのだろう。
ある部隊は街道を西へ退く。
別の部隊は途中の城へ入る。
城門が開き、羽柴兵を呑み込む。
そして閉じる。
小寺勢の一人がそれを見て叫んだ。
「城へ入りました!」
黒田が見る。
「何人だ」
「分かりませぬ。数百は!」
「ならば放っておきなされ」
兵が振り返った。
「……攻めぬので?」
「攻めませぬ」
黒田は即答した。
少弐も同じだった。
「囲まなくていい」
これは昨日の軍議で決めてある。
城を一つずつ取り返していたら、漣はそこで止まる。
包囲する。
柵を作る。
兵糧を運ぶ。
攻城の準備をする。
その間に秀吉はさらに西で軍勢を立て直す。
そんなことをするために須磨を抜いたのではない。
それに――。
赤松の者が笑った。
「この辺りなら、こちらの方が知っております」
宇野勢も同じだった。
ここは敵地ではない。
自分たちの土地だった。
山。
川。
渡し場。
脇道。
城。
寺。
井戸。
荷車を通せる道。
雨が降ればぬかるむ場所。
十人いれば塞げる狭路。
逆に百人置いても意味のない場所。
全部知っている。
だから城そのものを取る必要がなかった。
黒田は命じた。
「城を囲むな」
代わりに、その周囲の要所へ兵を置く。
街道の分岐。
橋。
渡河点。
峠。
船着き場。
水場。
城から別の城へ移動するために必ず通る場所。
そこだけを押さえる。
一つの城へ数千人を貼り付けるのではない。
数十。
多くても数百。
それでよい場所を、播磨衆は知っていた。
城へ入った羽柴勢を、城の中へ置いていく。
「出てくれば?」
少弐が尋ねた。
黒田が答えた。
「そのとき戦えばよろしい」
「出てこなければ?」
「なお結構」
城に籠った数百人は、その瞬間から野戦軍ではなくなる。
少弐勢を止められない。
ならば置いていけばいい。
漣は止まらなかった。
須磨を越える。
一つ城を越える。
また一つ。
羽柴勢が城へ入るたび、少弐勢はその横を通り過ぎた。
城壁の上から羽柴兵が見ている。
その目の前を、敵軍が西へ行く。
攻めてこない。
包囲もしない。
ただ追い越していく。
城兵からすれば、異様だった。
自分たちは何を守っているのか。
城は守れている。
だが街道を敵が通っている。
その先の村も。
渡し場も。
次の街道も。
次々と少弐勢に押さえられていく。
やがて城そのものが、少弐勢の進撃の後ろに取り残された。
先頭にいたのはスリフォンだった。
須磨で橋頭堡を築いた男が、そのまま西進の先鋒を任された。
だが、その周囲にいる兵の多くは虎衆でも鷹衆でもない。
竹田から。
生野から。
三木から。
姫路から。
各地で崩れ、逃げ、スリフォンに拾われた兵たちだった。
あの五千である。
須磨へ帰ってきたときには、泥だらけの敗残兵だった。
武器を失った者もいた。
所属すら分からなくなった者もいた。
それを須磨で休ませた。
食わせた。
眠らせた。
傷を治した。
鷹衆を骨組みにして隊を作り直した。
そして今。
その兵たちが、一番前を歩いていた。
スリフォンは馬上から道を見ている。
左右には播磨出身の兵を置いた。
「次の分かれ道は?」
「右が城下。左なら西へ抜けます」
「城下へ入る必要は?」
「ございませぬ」
「なら左」
それだけだった。
城を見ても寄らない。
敵影があれば追い払う。
橋があれば確保する。
後続が来れば渡す。
そしてまた前へ。
一度敗れた者たちが、今度は誰よりも速く播磨を西へ進んでいる。
それが彼らには嬉しかった。
「ここを知っているか」
スリフォンが尋ねる。
「知っております!」
兵が答える。
「あの山の向こうに村があります」
別の者が言う。
「なら案内せよ」
今度は彼らが案内する番だった。
北方から来たスリフォンより、播磨の道は彼らの方が知っている。
だからスリフォンは任せた。
村の者と話すのも播磨兵。
道を選ぶのも播磨兵。
どこを押さえるべきか決めるときも、まず土地の者に聞く。
スリフォンがしているのは、それを一つの方向へ束ねることだけだった。
西へ。
その後ろを須知が追う。
さらに小寺。
赤松。
宇野。
少弐勢が続く。
だが一列ではない。
街道が二つに分かれれば軍も分かれる。
川があれば渡河点を複数使う。
沿岸には西国艦隊が並走する。
必要なら兵を船に乗せ、陸上部隊を追い越してさらに前へ出す。
須磨で始まった漣の仕組みが、そのまま播磨全体へ広がっていた。
前の部隊が止まれば、次の部隊が横から抜ける。
城に敵が籠れば、その城を避けて先へ行く。
抵抗が強ければ別の道から前へ出る。
止まらない。
一つの巨大な軍勢ではなく、小さな軍勢が次々と前へ出ていく。
黒田は後方からその動きを見ていた。
「速すぎませぬか」
少弐が聞いた。
黒田は少し考えた。
「速いです」
「止める?」
「いいえ」
黒田は西を見る。
「今は速い方がよろしい」
秀吉に新しい戦線を作る時間を与えない。
城を攻めれば止まる。
領地を一つ一つ接収しても止まる。
だから何もしない。
播磨衆にとっては、もともと自分たちの土地なのだ。
必要なのは占領ではない。
通り直すことだった。
目標も明確になっていた。
宇喜多領との境。
そこまで行く。
そこまで羽柴勢を押し戻す。
そして初めて止まる。
少弐は地図の西端を指した。
「ここまで?」
黒田が頷いた。
「ここまでです」
それ以上へ進めば宇喜多の領地へ入る。
それは播磨奪還ではなく、別の戦争になる。
だから国境が終点だった。
少弐は振り返った。
須磨はもう遠い。
その途中には、羽柴勢が入ったままの城がいくつも残っている。
奇妙な戦況だった。
城には敵がいる。
なのに、その城より西を少弐勢が進んでいる。
「あとで面倒にならない?」
少弐が言う。
黒田は苦笑した。
「なります」
「やっぱり?」
「ですが、今止まる方がもっと面倒です」
少弐も笑った。
それでよかった。
後始末は後で考える。
今は漣を止めない。
その日の午後。
先頭を進むスリフォンのもとへ、新しい道案内が来た。
かつて赤松に仕えていた地侍だった。
男は西を指した。
「この先、羽柴勢がまた分かれております」
「城へ入ったか」
「一部は。残りはさらに西へ」
スリフォンは頷いた。
「では城は?」
兵たちが答えた。
「放っておきます」
もう誰も迷わなかった。
スリフォンは笑った。
「ならば行こう」
五千の兵が動き出す。
少し前まで逃げていた道を。
今度は逆に敵を追いながら。
城を越え。
川を越え。
街道を越え。
さらに西へ。
目指すのは宇喜多との国境。
須磨で生まれた一つの小さな波は、もう須磨だけのものではなかった。
漣は城を呑み込まない。
城を置き去りにして、その先へ行く。
そして播磨そのものを横切りながら、羽柴勢より先へ、さらに西へと広がり始めていた。




