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漣の計――日の出より戦を再開す

翌日、定刻。


羽柴秀吉の使者は、再び須磨へやって来た。


場所は陣中ではなく、須磨の寺であった。


昨日とは違い、赤松・宇野・別所の者たちも静かに座っている。


怒りが消えたわけではない。


むしろ逆だった。


一晩を経て、それぞれが腹を決めていた。


使者は少弐と黒田の前へ進み、丁寧に一礼した。


「昨日申し上げました件につき、御返答を承りに参りました」


少弐も頭を下げた。


「まずは一日の猶予をいただいたこと、羽柴殿へ御礼申し上げます」


使者が静かに待つ。


「皆で話しました」


少弐は続けた。


「領国安堵、身の安全、家臣の保護。また私や黒田殿についてまで、信長殿へ掛け合い相応の席を用意するとのこと。ありがたい申し出であることは、皆承知しております」


黒田も黙って頷いた。


条件そのものを侮辱するつもりはない。


だからこそ、答えも礼をもって返す。


「しかし」


少弐は使者をまっすぐ見た。


「我らに停戦の意思はございません」


寺の中は静かだった。


「ゆえに、昨日提示された条件を受け入れることもできません」


使者は少弐を見た。


次に黒田を見る。


黒田が答えた。


「我らの総意にございます」


赤松の者も頭を下げた。


宇野も。


別所も。


小寺勢も。


昨日のように怒鳴る者はいなかった。


使者はしばらく彼らを見渡し、やがて深く一礼した。


「承知いたしました」


それだけだった。


説得を重ねることもしなかった。


脅しもしなかった。


役目を果たした以上、帰るだけである。


ところが少弐が呼び止めた。


「まあ、お待ちくだされ」


使者が振り返る。


「せっかく寺まで来られたのです。茶くらい飲んでいかれよ」


一瞬、使者は面食らった。


それから笑った。


「では、お言葉に甘えまして」


茶が運ばれた。


つい昨日まで戦っていた者たちが、寺の一室で同じ湯気を眺めた。


誰も戦の話をしなかった。


茶のこと。


今日の風。


海が少し荒れそうだということ。


そんな話だけをした。


やがて使者が茶碗を置いた。


「丁寧なおもてなし、痛み入ります」


「こちらこそ」


少弐も頭を下げた。


使者が立ち上がる。


そのとき少弐が言った。


「一つ、羽柴殿へお伝えいただきたい」


「なんなりと」


「戦を再開する時刻を曖昧にしたくありません」


使者の顔が少しだけ引き締まった。


少弐は東を見た。


夜明けは近い。


「本日の日の出より」


静かな声だった。


「それまでは、こちらから兵を動かしませぬ」


使者は少弐を見つめた。


やがて深く頭を下げた。


「確かに承りました」


寺を出る。


馬へ乗る直前、使者はもう一度振り返った。


「少弐殿」


「はい」


「この二日、礼を失することなく我らを扱ってくだされたこと、筑前守様へ必ず申し伝えます」


少弐も一礼した。


「羽柴殿にも、寛大な申し出への感謝を」


「承りました」


使者は去った。


誰も追わない。


誰も斥候をつけない。


日の出までは停戦である。


その約束だけは守る。


---


使者の姿が消えると、黒田が少弐の横へ来た。


「では」


「うん」


少弐は海を見た。


夜の海に、いくつもの黒い船影が浮かんでいる。


西国艦隊。


その中でも異様に低く、細長い船影が並んでいた。


坂東フリガッタ。


従来からいた二隻。


そこへ兵庫津へ新造されてきた十隻が加わっている。


十二隻。


その後ろには輸送船が待機していた。


兵も既に乗っている。


先鋒はスリフォン。


その中核には鷹衆二百余。


さらにスリフォンが連れ帰った五千の中から、休養と再編を経て、まず動かせる者を選び出している。


黒田が尋ねた。


「作戦名は、あれでよろしいので?」


少弐は少し恥ずかしそうな顔をした。


「大層な名前を付けるほどのものでもないだろう」


「しかし呼び名がなければ、伝令が困ります」


少弐は海を見る。


小さな波が浜へ寄せていた。


一つが消える。


その後ろから次が来る。


また次が来る。


「漣」


黒田が聞き返した。


「さざなみ?」


「大波を一度ぶつけるわけじゃない」


少弐は指で海を示した。


「小さい波を何度も送る。前の波が崩れたところへ次を入れて、その次は前の波を追い越す」


黒田は少し考えた。


「漣の計」


「それでいい」


こうして名が決まった。


---


やがて空が白み始めた。


須磨正面。


黒田・小寺勢が配置につく。


山側には赤井直正。


後方には赤松・宇野ら播磨衆。


須知は遊撃として、どちらへでも走れる場所にいる。


六甲には虎衆の斥候だけを残した。


三木。


竹田。


明智。


今は追わない。


見るだけでよい。


今日開けるべき場所は一つしかない。


須磨正面。


沖では阿波辺岩蔵が船の動きを見ていた。


家島から送り込まれた物資。


兵庫津から来た船。


西国艦隊。


十二隻の坂東フリガッタ。


それらを一つの流れにする。


「日の出を見落とすなよ!」


船上で声が飛ぶ。


東の空が赤くなる。


誰も動かない。


羽柴陣も静かだった。


向こうも分かっている。


今日の日の出から再び敵である。


少弐は水平線を見ていた。


やがて。


光が海面から差した。


日の出。


少弐が手を下ろした。


「始めよう」


狼煙が上がった。


漣の計、発動。


最初に動いたのは陸ではなかった。


海だった。


輸送船が一斉に帆を張る。


先頭にスリフォン。


鷹衆二百余。


彼らを載せた船団が、須磨正面の味方の陣を横目に西へ進み始めた。


黒田の前を通過する。


赤井の前を通過する。


そして羽柴勢の正面まで来ても止まらない。


さらに西へ。


味方も敵も、海から追い越していく。


羽柴陣が騒ぎ始めた。


「船が出た!」


「どこへ行く!」


「後ろだ!」


「兵を載せているぞ!」


それでも黒田は動かなかった。


「まだ」


小寺勢を止める。


赤井も山側で待つ。


須知も動かない。


第一波が行く。


その後ろから第二波。


さらに第三波が準備に入る。


一度に全部を出さない。


一つ。


また一つ。


小さな波を送り続ける。


やがてスリフォンの船団が、羽柴陣の後方寄りの沿岸へ近づいた。


船が浜へ寄る。


兵が飛び降りる。


だがスリフォンは、上陸するなり敵本陣へ突っ込むようなことはしなかった。


「広げるな!」


鷹衆が走る。


「浜を押さえろ!」


道を確保する。


船着きに使える場所を押さえる。


次の部隊を受け入れる場所を作る。


まず小さな足場。


それだけでいい。


だが羽柴勢から見れば違った。


自分たちの後ろに敵が現れたのである。


当然、予備兵力が動く。


旗が変わる。


前を向いていた部隊の一部が後ろを向く。


黒田はそれを見ていた。


「まだです」


待つ。


スリフォンへ向かう兵が増える。


そこで第二波が浜へ入った。


兵が降りる。


スリフォンの後ろへ並ぶ――のではない。


その横を抜けた。


「行け!」


第二波が第一波を追い越す。


さらに前へ出る。


羽柴勢はまた兵を動かす。


最初にスリフォンへ向かった部隊だけでは足りなくなる。


陣の中央から新たな兵が抜ける。


その瞬間だった。


黒田が扇を上げた。


「正面、前へ」


須磨の狭隘部で、小寺勢が動き始めた。


走らない。


突撃しない。


ただ押す。


羽柴勢の正面を少しずつ圧迫する。


後ろにはスリフォン。


さらにその先には第二波。


前には黒田。


山側には赤井。


だがまだ包囲ではない。


西への道は開いている。


そこへ海から低い音が響いた。


坂東フリガッタが動き始めた。


十二隻。


船首を羽柴陣へ向けながら、沿岸へ寄ってくる。


少弐は沖を見た。


「近いな」


阿波辺はもっと近づけていた。


船首砲を使うためだった。


一隻目が止まる。


続いて二隻目。


三隻目。


十二隻が、海岸線に沿って位置を取る。


敵を皆殺しにするためではない。


狙うのは陣。


柵。


集結地点。


道。


そこに人間が居続けられなくすればいい。


号令。


轟音が響いた。


一発。


少し遅れて、また一発。


さらに一発。


十二隻が完全な一斉射撃をする必要もない。


装填できた船から撃つ。


だから砲声は揃わない。


ドン。


間。


ドン。


また間。


ドン。


まるで海そのものが脈打っているようだった。


羽柴陣の土が跳ねる。


柵が壊れる。


兵が伏せる。


その場所に留まれなくなった部隊が動く。


前へ逃げれば黒田。


後ろへ退けばスリフォン。


だから横へ動く。


そこへ次の砲弾。


陣形が少しずつ歪んでいく。


赤井直正が笑った。


「崩れてきたぞ」


黒田は首を振った。


「まだです」


崩れただけでは足りない。


退く方向を作らなければならない。


黒田は西を見た。


そこだけは閉じない。


羽柴勢が播磨へ退く道を、意図的に残してある。


少弐も確認した。


「追い詰めない」


「はい」


黒田が答えた。


「殲滅してはなりませぬ」


ここで羽柴軍を包囲すれば、敵は死に物狂いになる。


こちらも大量に死ぬ。


必要なのは勝ち首ではない。


須磨を開けること。


播磨へ戻ること。


だから逃げ道を残す。


そこへ第三波が動いた。


今度は赤松・宇野勢の一部。


船へ乗る。


スリフォンが確保した浜へ向かう。


そして上陸すれば、そこに留まらない。


第一波を追い越す。


第二波も追い越す。


さらに西へ。


小さな波が、前の波を越えていく。


漣。


一つ一つは小さい。


だが止まらない。


羽柴勢が一つに対応したころには、その先に次がいる。


次へ向けば、須磨正面が押してくる。


正面へ戻れば、海から砲声。


海を警戒すれば、さらに後ろへ兵が上陸する。


黒田がようやく言った。


「押します」


太鼓が鳴った。


須磨正面が動く。


赤井も山側から圧力を加える。


須知が空いたところへ走る。


だが誰も、


「討ち取れ」


とは叫ばなかった。


命令は一つだった。


「押せ」


敵が一歩退けば、一歩進む。


敵が十間退けば、十間進む。


崩れた敵を深追いしない。


西へ走る者は追い回さない。


ただし止まって陣を作ろうとすれば、また押す。


羽柴勢を西へ。


播磨へ。


赤松・宇野らの旧領に残る城々へ。


そこまで押し戻す。


少弐は海岸近くから、その光景を見ていた。


十二隻のフリガッタ。


その間を動く輸送船。


浜を走るスリフォン。


前へ出ていく播磨衆。


須磨正面から押す黒田。


六甲から降りてきた山風。


そして浜へ何度も寄せる小さな波。


少弐は呟いた。


「なるほど」


隣の者が振り返った。


「殿?」


少弐は海を見たまま言った。


「本当に漣になったな」


大波ではない。


一撃で何もかも呑み込む戦でもない。


一つの波が届かなければ、次が来る。


次が止まれば、その次が追い越す。


海から。


陸から。


また海から。


少しずつ。


しかし確実に。


須磨を塞いでいた羽柴の陣が、動き始めていた。


須磨の戦い、その第二幕。


後に「須磨漣の計」と呼ばれる戦いは、こうして日の出とともに始まった。

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