一日の返答――須磨突破評定
羽柴の使者は、最後にもう一つだけ言い残した。
「御返答は、今すぐでなくて結構にございます」
座に並ぶ播磨衆の顔を見る。
先ほどまで怒号を浴びせられていたというのに、使者は最後まで穏やかだった。
「一日、お待ちいたします。どうか、よくお考えいただきたい」
そして少弐と黒田へ向き直った。
「筑前守様は、少弐殿も、黒田殿も高く買っておられます」
黒田の眉がわずかに動いた。
「もし御両名まで降られるというのであれば、筑前守様自ら信長公へ掛け合い、相応の席を用意する。その準備までしておられます」
今度こそ、座が静まり返った。
脅しではない。
命乞いをしろとも言わない。
領国安堵。
身の安全。
家臣の保護。
さらに少弐と黒田には、織田家中で相応の席まで用意するという。
条件だけを見れば、破格だった。
使者は一礼した。
「明日、また参ります」
そして須磨を去った。
その姿が見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。
やがて少弐が言った。
「さて」
皆を見る。
「一日あるそうだ」
その一日は、降伏を考えるためには使われなかった。
軍議に使われた。
最初に確認されたことは、意外なほど単純だった。
赤松旧臣が言った。
「播磨は我らの土地でございます」
宇野の者が続いた。
「羽柴殿から安堵していただく土地ではない」
別所の者も頷いた。
小寺勢からも異論は出なかった。
黒田は一通り聞いてから確認した。
「では、降伏はせぬ。それが総意ということでよろしいか」
誰も反対しなかった。
「ならば次です」
黒田が地図を広げた。
三木。
竹田。
六甲。
須磨。
兵庫津。
海。
「竹田へは行きませぬ」
虎衆の斥候だけを出す。
三木方面にも同じ。
明智の行方と敵の動向を監視するだけで、兵力を割かない。
主戦場は一つ。
黒田の指が須磨へ戻った。
「ここを開けます」
少弐が言った。
「正面から?」
「正面からだけでは開きませぬ」
そこで海が使われた。
最初に動くのはスリフォンだった。
正面の五千をそのまま突っ込ませるのではない。
戦える者を選び、船に分乗させる。
西国艦隊の輸送力を使って須磨沖へ出し、敵正面陣地を海から越える。
上陸地点は、敵本隊の遥か後方ではない。
須磨正面の敵陣を少しだけ後ろから掴める位置。
深く入りすぎればスリフォン自身が包囲される。
だから狙うのは大包囲ではない。
小さな包囲だった。
スリフォンが敵後方へ入る。
敵は当然、それを放置できない。
前を向いていた兵の一部が後ろを向く。
予備隊がスリフォンへ向かう。
陣形が変わる。
「そこで押します」
黒田が須磨正面を指した。
黒田・小寺勢が前進する。
だが、これも総攻撃ではない。
敵を押す。
敵がスリフォンへ兵を向ければ、さらに押す。
そして後方で待っていた宇野・赤松勢を動かす。
ただし正面へ投入するのではない。
船でスリフォンの後ろへ回す。
上陸する。
スリフォンが作った足場を利用して、さらに先へ出る。
追い越す。
最初はスリフォン。
次に予備隊。
その予備隊がスリフォンを追い越して、さらに敵の後方へ出る。
敵がそれへ対応すれば、須磨正面の圧力をさらに強める。
少弐は地図を見ながら言った。
「波みたいだな」
黒田が頷いた。
一度に全軍を動かさない。
一隊が足場を作り、次がそこへ入り、そのまま前の隊を追い越す。
海上輸送が続く限り、須磨の狭い正面を通らずに兵力を前へ送れる。
そして、もう一つ。
少弐が海上に駒を並べた。
坂東フリガッタ。
これまで須磨方面にいた二隻。
そこへ兵庫津に新造されてきた十隻を加える。
十二隻。
「全部出す」
少弐が言った。
沿岸へ寄せる。
船腹を敵へ向ける必要はない。
船首を向けたまま進む。
船首砲を使う。
目的は大量に敵兵を殺すことではなかった。
敵陣の一点へ砲弾を撃ち込み続ける。
すると敵には二つしか選択肢がない。
砲撃を嫌って前へ出るか。
後ろへ下がるか。
どちらでもよい。
今いる場所から動けばよい。
黒田が言った。
「陣を崩させます」
船首砲で陣形を動かす。
スリフォンが後方へ現れる。
それに対応して敵予備が動く。
そこへ須磨正面から圧力をかける。
さらに海から第二陣が上陸する。
敵が一つ一つに対応しようとすればするほど、最初に作った陣形から離れていく。
赤井直正が尋ねた。
「崩れたら追うか」
「追います」
黒田は答えた。
「ただし、殺し尽くしてはなりませぬ」
ここが、この作戦でもっとも重要だった。
敵の退路を完全には塞がない。
一か所だけ開けておく。
西へ。
播磨へ。
羽柴勢が後退できる方向を残す。
「逃がすのか」
「逃がします」
黒田は地図のさらに西を指した。
そこには赤松・宇野らの旧領に残る城々がある。
「ここまで入っていただきます」
少弐が理解した。
須磨で羽柴軍を壊滅させるのではない。
須磨から押し出す。
押し出された敵が次の城へ入る。
そこでまた戦線が動く。
こちらも須磨から出られる。
播磨衆は自分たちの土地へ戻れる。
西国艦隊は沿岸を追随できる。
そして何より、秀吉に須磨という狭い栓を握らせ続けない。
黒田は皆を見回した。
「勘違いなされぬよう」
地図の須磨を指で叩いた。
「これは羽柴勢を討ち果たす戦ではございませぬ」
次に、その指を西へ滑らせた。
「道を開ける戦です」
敵を殺すことが目的ではない。
陣を崩す。
後ろを向かせる。
退かせる。
そして退く方向まで、こちらが作る。
少弐は最後に確認した。
「では明日、使者が返事を聞きに来る」
「はい」
「なんと答える」
赤松の者が何か言おうとした。
黒田が先に止めた。
「怒鳴ってはなりませぬ」
「……分かっております」
「本当に?」
「官兵衛殿!」
笑いが起きた。
昨日までの敗残兵の軍議ではなかった。
少弐も笑ってから、地図を見た。
十二隻の坂東フリガッタ。
スリフォン。
黒田・小寺。
赤井直正。
宇野。
赤松。
西国艦隊。
虎衆は遠くを見張る。
須知は動ける位置に置く。
一日。
秀吉は降伏を考える時間を与えたつもりだった。
須磨ではその一日を使って、
羽柴軍を須磨から押し出し、播磨へ帰るための作戦が組み上がろうとしていた。




