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領国安堵――須磨に来た使者

少弐たちには、まだ見えていなかった。


明智光秀がなぜ竹田城を離れたのか。


なぜ三木や播磨中央へ放っていた斥候まで引き上げ、急いで但馬へ向かったのか。


六甲から見れば、明智が突然消えただけだった。


だが、その背後では織田信長の命が下っていた。


出雲から毛利が東進している。


但馬には山名がいる。


尾張衆も入っている。


ここへ毛利まで入り込めば、播磨攻めどころではなくなる。


ならば戦場を分ける。


明智光秀は但馬へ。


山名勢を支え、毛利の東進を抑える。


羽柴秀吉は播磨へ。


須磨に集結した播磨勢を処理し、播磨攻略を終わらせる。


こうして但馬では、


毛利。


明智。


山名。


その三者が城と街道を挟んで押し合う、新しい戦線が生まれた。


一方、秀吉は南を向いた。


須磨である。


そこには播磨の残った兵が、ほとんど吸い寄せられるように集まっていた。


小寺。


宇野。


赤松旧臣。


別所残党。


さらに各地から逃れてきた名もない地侍たち。


スリフォンが連れ帰った五千にも、そうした者が大量に含まれている。


秀吉は、それを見て正面攻撃を選ばなかった。


使者を出した。


白昼堂々と、須磨へやって来た。


黒田は追い返さなかった。


話を聞くだけなら損はない。


少弐も同意した。


使者は丁重だった。


挑発もしなかった。


むしろ提示された条件は、驚くほどよかった。


羽柴に降るならば、これまでの敵対を深く問わない。


領地を持つ者については、原則としてその領国を安堵する。


家臣についても身の安全を保証する。


武装解除後、帰郷を望む者は帰してよい。


羽柴家への仕官を望む者についても取り立てを考える。


そして――。


少弐に従ったことだけを理由に、播磨衆を根絶やしにするつもりはない。


使者は静かに言った。


「羽柴筑前守様は、播磨の御衆を滅ぼしたいのではございませぬ」


黒田は黙って聞いていた。


理にかなっている。


あまりにも、理にかなっていた。


だが。


後ろで音がした。


誰かが膝を叩いたのである。


「……ふざけるな」


宇野旧臣の一人だった。


赤松の者も立ち上がった。


「領国安堵だと?」


「誰の領国を、誰が安堵するというのだ!」


空気が変わった。


使者は表情を変えなかった。


それがさらに腹立たしかった。


別所の旧臣まで声を上げた。


「三木をあのようにしておいて!」


「我らの城を落とし、村を焼き、それで今さら帰ってよいと申すか!」


「初めから我らの土地だ!」


使者の提示した条件は、客観的には寛大だった。


だからこそ彼らには耐え難かった。


羽柴秀吉が播磨の主人であり、自分たちは許しを乞う側である。


条件を受け入れるということは、その前提まで認めることになる。


赤松旧臣の一人が前へ出ようとした。


黒田が立った。


「座られよ」


誰も聞かない。


「官兵衛殿、これを聞いて黙っておれと申されるか!」


「申しております」


黒田の声が低くなった。


それでも怒号は止まらない。


少弐は横で使者を見た。


使者は逃げようともしていない。


むしろ、この反応まで秀吉に報告するつもりなのだろう。


黒田もそれに気づいていた。


だからこそ声を張った。


「座れ!」


ようやく静まった。


黒田は播磨衆を見回した。


「使者を斬れば、羽柴筑前守が喜ぶだけです」


何人かが黒田を見る。


「我らは話も聞けぬ者。我らは統率の取れぬ敗残兵。我らは少し言葉を投げれば勝手に怒り出す者――そう報告されたいのですか」


誰も答えなかった。


「腹が立つならば、なおさら座られよ」


黒田自身にも思うところはある。


だが、それと使者を害することは別だった。


「この者は命じられて来ただけです」


黒田は使者へ向き直った。


「続きを」


使者は一礼した。


そして最後まで条件を読み上げた。


その間、誰も口を挟まなかった。


ただし。


誰一人として穏やかな顔をしていなかった。


話が終わる。


使者は返答を求めた。


黒田は即答しなかった。


少弐を見た。


少弐も播磨衆を見渡した。


さきほどまで疲れ果てていた者たちだった。


城を失った者。


主人を失った者。


領地を失った者。


スリフォンに拾われ、ようやく須磨まで戻ってきた者。


秀吉は彼らに逃げ道を与えた。


それは軍略として間違っていない。


むしろ見事だった。


だが、その逃げ道を見せられたことで、彼らは初めて自分たちが何を失ったのかを突きつけられた。


「帰れと言われて帰れるなら」


誰かが呟いた。


「ここまで来ておらぬ」


別の者が続けた。


「安堵していただかなくとも、播磨は我らの国じゃ」


また声が上がる。


今度は怒号ではなかった。


低く、重かった。


黒田は額を押さえた。


「だから奮い立たなくてよいのです」


少弐が思わず黒田を見る。


「そこなのか」


「そこです」


黒田は疲れたように答えた。


「羽柴殿は我らを怒らせるために使者を寄越したのではございませぬ。降ろすためです」


その言葉で、少弐も理解した。


秀吉の策は失敗したわけではない。


まだ分からない。


この場にいる武将たちは怒った。


だが五千の兵すべてが同じだろうか。


村へ帰りたい者。


妻子が気になる者。


もう戦いたくない者。


領地が戻るなら降ってもよいと思う者。


必ずいる。


黒田は使者を見た。


そして初めて、秀吉が本当に狙っているものを悟った。


須磨の柵ではない。


須磨に集まった人間そのものだ。


使者一人なら追い返せる。


だが「降れば帰れる」という言葉は、もう須磨の中へ入ってしまった。


黒田は播磨衆を振り返った。


「皆様方。怒るのは今日だけになされよ」


「官兵衛殿?」


「明日から忙しくなります」


秀吉は須磨を攻める前に、須磨の中を攻め始めたのである。

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