須磨路、海より火を吐く
やがて、羽柴の軍勢が姿を見せた。
もっとも、清盛館にいる少弐冬明からは、その姿そのものは見えない。
須磨の山と海とに挟まれた狭い道。その向こうで何千、何万という人間が動き始めた気配だけが、地鳴りのように伝わってくる。
「……来たな」
少弐は海の方を見た。
見えない。
だが、熱を感じた。
羽柴秀吉は、ついに須磨路へ踏み込んだのである。
ここを抜けば兵庫津。
そして、その先には清盛館がある。
地図の上で見れば、もうわずかな距離だった。
だが――羽柴勢にとって、そのわずかな道が恐ろしく遠かった。
須磨正面には黒田・小寺勢。
山側には赤井直正。
後方には宇野・赤松残党の諸隊。
さらに六甲方面では須知が動き、山中には虎衆が潜んでいる。
そして海には、阿波辺岩蔵がいた。
岩蔵は軍船を一か所に固めなかった。
沖へ出したかと思えば岸へ寄せ、羽柴勢が海側を警戒すれば離れ、山側へ圧力をかけ始めれば再び接近する。
西国艦隊そのものを、一個の遊撃隊として使っていた。
「寄せろ!」
岩蔵の声で小船が岸へ殺到する。
兵が降りる。
矢玉が運ばれる。
米俵が転がされる。
負傷者を積んだ船が離れる。
その船と入れ替わるように、また別の船が入ってきた。
堺から。
淡路から。
讃岐から。
海路が生きているかぎり、須磨の守備兵には物資が届いた。
羽柴勢から見れば奇妙な戦だった。
正面の敵を押しているはずなのに、敵の兵糧が減らない。
矢も減らない。
負傷兵だけがいつの間にか消え、代わりに休んだ兵が戻ってくる。
そして、ときおり海そのものが牙を剥いた。
西国艦隊の中に、わずか二隻だけ異様な船があった。
坂東フリガッタである。
本来なら外洋を高速で走り回る船だ。
しかし岩蔵は、この二隻を須磨路の海岸ぎりぎりまで寄せた。
「船首、向けろ!」
船が旋回する。
細長い船体の先端が、街道を進む羽柴勢へ向いた。
羽柴兵の何人かが、それに気づいた。
船がこちらを向いている。
ただそれだけだった。
次の瞬間。
轟音。
船首砲が火を噴いた。
狭い須磨路に音が反響した。
海から撃たれた砲声が山肌へぶつかり、また海へ返ってくる。
一発にすぎない。
それでも、逃げ場の少ない街道では恐怖が何倍にも膨らんだ。
「散れ!」
だが散れる場所がない。
山へ寄れば赤井勢。
海へ寄れば艦砲。
前には黒田・小寺。
後ろからは次々と味方が押してくる。
そして砲撃が止んだと思ったころには、西国艦隊の小船が別の場所へ兵を降ろしている。
羽柴勢は確かに前進していた。
一歩。
また一歩。
だが兵庫津が近づけば近づくほど、清盛館は遠くなっていくように感じられた。
そのころ、さらに西から一団が須磨へ下ってきていた。
スリフォンである。
彼は殿を務めながら、敗走兵を拾い続けていた。
最初は数百。
それが千となり、二千となり、ついには五千を超えた。
だが五千すべてが兵ではなかった。
傷を負った者。
槍を失った者。
甲冑すら捨てて逃げてきた者。
主を失った者。
昨日まで互いの名すら知らなかった者。
スリフォンは後退しながら、それを組にした。
「十人で固まれ」
歩ける者に槍を持たせる。
「お前は、この九人から離れるな」
戦える者を見つければ前へ。
疲れ切った者は後ろへ。
戦えぬ者には荷を持たせる。
それすらできぬ者は船へ送った。
敗走しながら、軍を作っていた。
須磨へ着いたころには、架空寺の境内は人であふれた。
廊下にも人。
軒下にも人。
墓地の脇にまで負傷兵が横たわる。
寺だけでは、とても収容できなかった。
スリフォンは境内を一巡すると決断した。
「三千だけ残す」
周囲がざわめいた。
「歩ける者ではない。戦える者を三千だ」
ここから先は須磨防衛戦である。
数だけいても意味がない。
武器を持てる。
命令を聞ける。
走れる。
そしてもう一度、羽柴勢の前に立てる。
その三千だけを選んだ。
残りは有馬と兵庫津へ送る。
西国艦隊の輸送船が動き始めた。
重傷者は兵庫津の病院へ。
長期療養が必要な者は有馬へ。
寺の境内から次々と担架が運び出される。
そしてスリフォン自身もまた、その三千を率いてすぐ戦場へ戻ることはしなかった。
「家島へ行く」
まず休ませる。
食わせる。
眠らせる。
武器をそろえる。
隊を組み直す。
そして、自分が殿を務めながら教えてきた最低限の動きを、もう一度最初から叩き込む。
家島は、そのための再編地となった。
鷹衆二百余もスリフォンについていった。
彼らだけは、この五千の寄せ集めの中で最初から最後まで崩れなかった。
だからこそ、新たな三千の骨になる。
夕刻。
家島へ向かう船の上で、スリフォンはようやく腰を下ろした。
誰かが水を差し出した。
一口飲む。
そして、そのまま甲板へ寝転んだ。
何日ぶりに横になったのか、自分でも分からなかった。
遠く須磨の方から、また砲声が響いた。
坂東フリガッタだ。
スリフォンは目を閉じた。
まだ戦っている。
ならば今は眠っていい。
三千も眠らせる。
次に須磨へ戻るとき、この者たちは敗残兵ではない。
――一つの軍として戻る。
一方、須磨路では羽柴勢がまた一歩進んだ。
兵庫津は近い。
清盛館も近い。
地図を開けば、本当にあと少しだった。
それなのに。
海から砲声が響くたび、山から鬨の声が返ってくるたび、羽柴兵にはその「あと少し」が――途方もなく遠く感じられた。




