須磨再陣――五千を連れて帰った男
須磨へ帰りついた黒田は、まず軍勢を数えることをやめた。
数えても仕方がなかった。
竹田、三木、西播磨から戻ってきた兵は所属も装備もばらばらで、昨日までどこの旗の下にいたのかさえ分からぬ者がいる。
必要なのは、誰が何人いるかではない。
どこを誰に守らせるか。
それだけだった。
黒田は須磨正面を自ら引き受けた。
小寺勢を中核として柵を組み直し、街道と海岸沿いの進路を塞ぐ。
ここが須磨の正面である。
その後方には、宇野・赤松の残党と旧臣たちを置いた。
彼らには最前線を任せない。
兵を休ませ、崩れた部隊を受け入れ、必要な場所へ送り直す予備とする。
須磨の山側には赤井直正。
六甲から下りてきた赤井勢は、山道から須磨へ抜けようとする敵を受け持つ。
赤井は山を振り返り、一言だけ言った。
「上はシレトク、下はわしということか」
黒田は頷いた。
「そういうことになります」
須知には定まった陣地を与えなかった。
遊撃である。
須磨と六甲の間を動き、敵の斥候を狩り、必要なら六甲へ駆け上がる。
六甲方面が崩れれば最初に駆けつけ、須磨正面が押されれば横から噛みつく。
そして阿波辺岩蔵には、まったく別の命令が下った。
「岩蔵殿には家島へ行ってもらいたい」
阿波辺は眉を上げた。
戦から外されたと思ったらしい。
だが黒田が地図を広げると、その顔が変わった。
家島から須磨へ。
船を動かす。
兵糧を動かす。
矢を動かす。
火薬を動かす。
負傷兵を戻し、代わりに新しい兵を送り込む。
そして何より――西国艦隊を動かす。
阿波辺岩蔵は山賊である。
だが、それ以前から船着場で働き、船頭や荷役の人間を知っている。
どの船にどれだけ積めるか。
どこなら夜でも荷を下ろせるか。
潮が変わればどこへ船を逃がせるか。
武士より、よほど知っている。
「戦うより忙しいぞ」
そう言われ、阿波辺は笑った。
ほどなくして家島方面から船影が増え始めた。
一隻、二隻ではない。
西国艦隊が動いたのである。
輸送船に混じって軍船が進み、須磨沿岸へ一気に展開した。
須磨の戦いは、もはや陸だけの戦ではなくなった。
海には西国艦隊。
浜と街道には黒田・小寺。
その後方に宇野・赤松旧臣。
山裾には赤井直正。
その間を須知が走る。
そして六甲山中には、シレトクがいた。
虎衆は山を捨てなかった。
かつて自分たちで築いた砦へ戻っていた。
新しく大城郭を造ったわけではない。
土を盛り、木を組み、道を狭め、射線を作った山の砦である。
どこから登れば苦しいか。
どこに伏せれば下から見えないか。
どこを夜に歩けば音が響かないか。
彼ら自身が知っている。
シレトクはそこで明智光秀を待った。
明智が来る。
ならば来させればよい。
六甲の戦いは、須磨とは別の戦になる。
そうして配置は、ひとまず整った。
ただ一人。
帰ってこない男がいた。
スリフォンである。
一日待った。
来ない。
二日経っても来ない。
西から逃れてきた兵に尋ねれば、
「まだ後ろにおります」
という。
別の者に聞いても、
「橋の向こうで戦っておりました」
という。
さらに数日すると、
「敗残兵を集めています」
という話に変わった。
黒田は何度も西を見た。
何をしている。
もうよい。
早く帰ってこい。
だが、スリフォンは来なかった。
やがてある日。
須磨西方の見張りから、奇妙な報告が入った。
「軍勢が参ります」
「誰だ」
「分かりませぬ」
黒田は顔をしかめた。
敵なら旗が見えるはずだった。
ところが見張りは困ったように続けた。
「旗が……多すぎます。それに、ばらばらです」
黒田自身が見に出た。
道の向こうに、人の列があった。
先頭が見えているのに、最後尾が見えない。
赤松の旗がある。
宇野の者もいる。
小寺の兵もいる。
どこのものとも分からない具足の者までいる。
槍を持つ者。
弓を持つ者。
棒しか持っていない者。
負傷者を背負う者。
荷車を押している者。
そして、その巨大な列の周囲を、小さな一団が忙しく走り回っていた。
鷹衆だった。
二百余。
スリフォンが率いて出た者たちは、まだそこにいた。
その鷹衆二百余が骨組みとなって、何倍もの兵を動かしている。
黒田は人数を尋ねた。
報告に来た者が答えた。
「およそ五千」
黒田は聞き返した。
「……五千?」
「はい」
五千の精兵ではない。
むしろ逆だった。
戦に敗れ、城を失い、主とはぐれ、逃げ道を失った者たちである。
それをスリフォンは、退却しながら拾い続けた。
百人拾えば組を作らせた。
武器のある者を外側へ。
負傷者を内側へ。
土地を知る者を先へ。
鷹衆を要所へ置いた。
追撃を受ければ鷹衆が止める。
その間に五千が進む。
橋を渡れば壊す。
川を越えれば守る。
夜になれば交代で眠らせる。
そうして、五千人を潰走させずに歩かせてきたのである。
やがてスリフォン本人が現れた。
ひどい姿だった。
泥にまみれ、馬も疲れ切っている。
それでも彼は須磨へ入る前に振り返った。
まだ後ろを確認していた。
黒田は思わず言った。
「もうよい、スリフォン殿」
スリフォンがこちらを見る。
「ここは須磨です」
しばらくして、ようやくスリフォンは後ろを見るのをやめた。
そして黒田の前まで来ると、五千の軍勢を振り返った。
「拾いすぎました」
黒田は絶句した。
赤井直正が横で笑った。
だが黒田はすぐに真顔へ戻った。
五千。
これは単なる増援ではない。
使い方を誤れば、一日で再び五千の敗残兵に戻る。
だが、食わせ、休ませ、武器を与え、隊を組み直すことができれば――。
黒田は海を見た。
沖には西国艦隊の帆が並んでいる。
家島では阿波辺が兵糧を動かしている。
六甲ではシレトクと虎衆が明智を待っている。
須磨には赤井、須知、宇野、赤松、小寺。
そして今。
西から五千が帰ってきた。
黒田は静かに地図を広げ直した。
もはやこれは、敗走後の守備配置ではなかった。
須磨を中心とする、新しい戦線が生まれようとしていた。




