須磨への退き口
黒田・小寺勢は、ようやく須磨へ帰りつこうとしていた。
竹田城を失い、西から押し戻され、姫路方面に留まることさえ危うくなった兵たちは、もはや最初の軍勢の姿を保ってはいない。
それでも黒田は、須磨まで戻れば立て直せると考えていた。
「ここで一度、止める」
須磨には兵庫津が近い。海から物資を入れることもできる。六甲山地へ通じる道もあり、有馬方面とも連絡できる。
何より、ここから先を抜かれれば兵庫津そのものが危うい。
小寺勢とともに戻った黒田は、到着した兵を休ませる間も惜しんで再配置を始めた。
だが、その黒田よりはるか後方には、まだスリフォンがいた。
スリフォンは急がなかった。
橋を落とし、渡し場を潰し、道を塞ぎ、敵が迫れば小さく戦ってまた退いた。
そのたびに、道端や村、山中から兵が現れた。
竹田城から落ちてきた者。
三木方面から逃れてきた者。
黒田・小寺勢とはぐれた者。
負傷した仲間を担いで歩く者。
武器を失い、ただ須磨を目指していた者までいた。
スリフォンは彼らを追い払わなかった。
「歩ける者は歩け。槍がなければ荷を持て。弓が引けるなら後ろへ並べ」
拾って、並べて、また退く。
最初は残兵に過ぎなかった。
それが千となり、二千となった。
そして須磨への道が近づくころには、いつしか三千を越えていた。
精鋭三千ではない。
傷ついた者もいる。疲れ果てた者もいる。所属すらばらばらである。
それでも彼らは、もう潰走兵ではなかった。
スリフォンを先頭に、ひとつの軍勢として歩いていた。
そのころ六甲では、シレトクが動いていた。
明智光秀が三木周辺へ姿を現したとの報せを受けて以来、シレトクはその動きを見続けていた。
明智勢は荒れ果てた三木周辺を前に、すぐには深入りしてこない。
丹波との連絡を確かめ、偵察を繰り返している。
そして黒田・小寺勢が須磨へ下がり始めた。
それを確認すると、シレトクは散っていた兵を六甲山中へ呼び戻した。
夜襲に出ていた者。
間道を見張っていた者。
伝令や斥候として山中に散っていた者。
彼らが再び六甲へ集まってくる。
六甲は捨てない。
しかし、ここで決戦もしない。
山そのものを巨大な目と耳として使い、明智の動きを見続ける。
その役目をシレトクが引き受けた。
赤井直正と阿波辺岩蔵も判断した。
「六甲はシレトクに任せよう」
二人は山を下りた。
赤井ら正規兵まで六甲に残れば、須磨の兵力が足りなくなる。
明智を六甲で食い止めるのではない。
六甲で見張り、乱し、須磨で受け止める。
赤井直正と阿波辺岩蔵は手勢を率いて須磨へ戻った。
こうして戦線は、奇妙な形で再びまとまり始めた。
六甲山中にはシレトク。
須磨には黒田・小寺、赤井直正、阿波辺岩蔵。
そしてその西方からは、スリフォンが三千を越える敗残兵をひとつの軍勢へ変えながら、ゆっくりと近づいてくる。
黒田が須磨から西を眺めたとき、最初に見えたのは旗ではなかった。
延々と続く、人の列だった。
「……あれは」
小寺の者が目を凝らす。
やがて先頭に、見覚えのある一団が見えた。
スリフォンだった。
黒田はしばらく何も言わなかった。
殿を頼んだとき、これほどの人数を連れて帰ってくるとは思っていなかった。
敗れた軍から、三千を拾ってきたのである。
しかも敵は、その後ろにいる。
スリフォンはまだ殿を終えていなかった。
須磨が見えるところまで来てもなお、最後尾を確認し、敵との距離を測りながら歩いていた。
黒田はそこで初めて命じた。
「門を開けよ。飯と水を用意せよ」
少し考えてから、付け加えた。
「三千では足りぬ。もっと用意せい」
須磨は、敗走の終着点ではなくなった。
ここから再び戦うための場所になりつつあった。




