天正二年十一月――夜の播磨
十一月。
明智光秀が、ついに三木方面へ姿を現した。
坂本から動き、丹波へ入り、波多野離反と国人衆の騒乱を整理しながら西へ出てきた明智勢だったが――三木城周辺へ達したところで、その進みが止まった。
光秀が想定していた三木は、もうなかった。
城は焼けている。
城下も荒れている。
橋は落とされている。
道には倒木。
村によっては家々まで焼かれ、人だけが先に南へ逃げていた。
残っているはずの別所勢もいない。
赤井直正もいない。
阿波辺岩蔵もいない。
捕捉すべき敵が、消えていた。
そして三木城を落としたはずの羽柴方も、すぐには前へ出られない。
光秀はここで進撃を止めた。
「明智勢、三木周辺にて停止!」
須磨へ知らせが届いた。
少弐が聞き返す。
「止まった?」
「はい。物見を多数出している模様!」
赤井甚兵衛が地図を見る。
「当然でしょうな」
何がどこにいるのか分からない。
ならば光秀ほどの将なら、まず調べる。
三木周辺を偵察。
丹波との連絡路を確認。
後方の波多野や国人の動きを監視。
羽柴方との連携も取り直す。
少弐は頷いた。
「進まないんじゃない。進めるようにしてるんだ」
だから危険だった。
明智が状況を理解してしまえば、次は速い。
ところが――
その時間を与えない者たちがいた。
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虎衆だった。
最初の夜。
明智方の外縁へ矢が飛んだ。
数名が山へ追った。
誰もいない。
翌夜。
別方向で銃声。
さらに離れた場所で火。
三日目。
馬が騒いだ。
四日目。
夜番の交代直後に襲撃。
五日目。
何も起きなかった。
だから六日目、兵が少し眠った。
そこへ来た。
虎衆は明智勢を打ち破ろうとはしなかった。
眠らせなかった。
夜になると出る。
一撃。
退く。
別の組が出る。
また退く。
山へ追えば消える。
追わなければ近づいてくる。
昼になれば、虎衆はいない。
明智方は昼に偵察へ出る。
道を調べる。
橋を直す。
丹波との連絡を確認する。
そして夜になる。
また襲われる。
数日もすると――
昼に眠る兵が出始めた。
夜に起きる。
昼に寝る。
そこへ今度は昼間、虎衆の物見が姿を見せる。
「昼夜逆転してるじゃないか」
少弐は報告を読んで笑った。
甚兵衛は笑わなかった。
「シレトク殿、やりすぎでは」
「俺もそう思う」
だが効果は出ていた。
明智勢は崩れない。
規律も保っている。
しかし進まない。
偵察しなければならない。
丹波も見なければならない。
夜は虎衆が来る。
三木周辺で――
光秀の時間だけが削られていった。
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一方、西。
こちらは笑える状況ではなかった。
「スリフォン勢、およそ三千!」
少弐が聞き返した。
「三千?」
もともと鷹衆は三百だった。
それが十倍になっていた。
ただし、鷹衆が増えたわけではない。
赤松残兵。
宇野残兵。
敗れた国人の兵。
主人を失った者。
小寺や別所から流れてきた者まで混じっている。
それをスリフォンが拾い続けた結果だった。
軍装は揃わない。
指揮系統も完全ではない。
それでも三千。
スリフォンは、その三千で大きな決戦をしなかった。
川。
橋。
また川。
羽柴勢が迫れば戦う。
押されれば橋を壊す。
渡し舟を隠す。
堤を利用する。
そして次へ退く。
三千人で、巨大な殿軍を始めた。
「橋、破却!」
「羽柴勢、別の渡河点へ!」
「スリフォン勢、後退!」
「次の川で再集結!」
須磨にはそんな知らせばかりが届いた。
勝ったという報告はほとんどない。
だが、
全滅したという報告もない。
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そこへ北から黒田孝高と小寺勢が戻ってきた。
竹田城を救えず、南下。
ようやく姫路へ到達した。
夏に用意した架空寺――西光寺。
黒田はそこで初めて、各地から流れ込んだ兵と傷兵を見た。
赤松。
宇野。
小寺。
その他の国人。
西光寺はすでに、寺というより巨大な中継所になっていた。
だが黒田は一晩も経たず判断した。
「姫路も保ちませぬ」
スリフォンが黒田を見た。
「捨てますか」
「捨てます」
迷いはなかった。
黒田が夏から言い続けてきたことだった。
土地ではなく兵を残す。
姫路を守るために正規兵を消耗させる理由はない。
「須磨まで下がります」
小寺勢も同意した。
傷兵を先へ。
荷を東へ。
残っている兵糧も運べるだけ運ぶ。
寺には可能な限り迷惑を残さない。
そして黒田はスリフォンにも言った。
「あなたも退いてください」
スリフォンは首を振った。
「まだ三千いる」
黒田が黙る。
「みんなを一緒に動かしたら追いつかれる」
スリフォンは西を指した。
「先に行って」
「殿をするつもりですか」
「そのために集めた」
黒田はしばらくスリフォンを見た。
三百の鷹衆を率いて姫路へ来た男が、今では三千近い敗残兵の前に立っている。
「死んではなりませんぞ」
スリフォンが笑った。
「少弐にも同じこと言われた」
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須磨へ、その知らせが届いた。
「黒田殿、小寺勢、姫路を放棄! 須磨へ向かっております!」
少弐は頷いた。
「よし」
「スリフォン殿は残留!」
少弐の顔が変わる。
「何で」
「殿を引き受けたとのこと!」
「……あいつ」
少弐はすぐ筆を取った。
だが書こうとして止まった。
戻れ。
そう書けばいい。
しかしスリフォンまで一斉に退けば、羽柴勢が黒田・小寺勢の背中へ届く。
三千の敗残兵も混乱する。
少弐は結局、短く書いた。
> 須磨まで帰ってこい。
勝つ必要はない。
それだけだった。
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十一月の播磨は、もはや城を巡る戦ではなくなっていた。
三木では明智光秀が焼け跡を前に進撃を止め、丹波との連携を組み直す。
その周囲を虎衆が夜ごと襲い、昼夜を狂わせる。
西ではスリフォンが三千近い敗残兵をまとめ、川と橋を一つずつ使い潰しながら後退。
黒田・小寺勢は姫路を捨て、須磨へ。
六甲には別所長治。
赤井直正。
阿波辺岩蔵。
そして須磨には――
少弐と赤井甚兵衛。
少弐は地図を見た。
播磨西部は失われつつある。
北も失った。
三木も失った。
姫路まで放棄する。
地図だけを見れば、羽柴方の圧勝だった。
しかし、甚兵衛が気づいた。
「少弐殿」
「何?」
「皆、こちらへ来ておりますな」
少弐も見る。
黒田が来る。
小寺勢が来る。
別所がいる。
赤井がいる。
阿波辺がいる。
虎衆も六甲にいる。
そして最後にはスリフォンの三千も来る。
それまで播磨全域へ散っていた軍勢が――
須磨と六甲へ圧縮されていた。
少弐は地図の東端を見る。
ここから先には兵庫津がある。
海がある。
家島から続く海上輸送もある。
そして何か月も前から準備してきた須磨がある。
少弐は静かに言った。
「ここからだな」
今までは土地を失いながら逃げる戦だった。
だが十一月。
黒田が姫路を捨て、スリフォンがその殿を引き受けたことで――
長い播磨攻めの戦場は、ついに須磨へ向かって収束し始めた。




