天正二年十月――逃げる戦
明智光秀が坂本を発った。
その知らせが赤井直正のもとへ届いた後の動きは、あまりにも早かった。
「赤井勢、退却!」
須磨で報告を受けた少弐は聞き返した。
「退却?」
伝令が首を振る。
「いえ、その……散りました!」
「散った?」
「蜘蛛の子を散らすように!」
赤井甚兵衛が吹き出した。
少弐も地図を見て、ようやく意味を理解した。
赤井直正も阿波辺岩蔵も、明智と戦うつもりなど最初からなかった。
集めた丹波国人。
山賊。
別所残党。
在地の小勢。
それらを軍勢としてまとめたまま退けば、追われる。
だから――
軍をやめた。
「解散したのか」
「そのようなものかと!」
旗を畳む。
鎧を脱ぐ者もいる。
山賊は山へ戻る。
丹波の国人は自領へ散る。
別所の者は播磨へ。
赤井直正と阿波辺岩蔵自身も少人数に分かれ、六甲方面へ抜けた。
昨日までそこにいた軍勢が、一夜で消えた。
光秀が捕まえるべき敵そのものが、いなくなったのである。
少弐は笑った。
「直正殿、最初から城を取る気なんかなかったな」
甚兵衛も頷いた。
「取れば守らねばなりませぬから」
騒がせる。
集める。
暴れる。
そして本格的な討伐軍が来たら散る。
それだけだった。
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だが、もっと凄まじかったのは別所だった。
三木城を焼いた別所長治は、単に六甲へ向かって逃げてきたわけではなかった。
「別所勢、南下!」
そこまでは分かっていた。
続く報告を聞いて、少弐の顔が変わった。
「橋を落としております!」
「自分たちの後ろを?」
「はい!」
甚兵衛が地図を見る。
三木から南。
六甲方面へ続く道。
別所勢は退きながら、追手が使えそうな橋を落とした。
狭い道には木を倒す。
使える渡し舟は対岸へ移す。
だが、それだけではなかった。
「村にも火が!」
少弐が伝令を見る。
「羽柴が焼いているのか?」
「別所方にございます!」
一瞬、須磨の指揮所が静まり返った。
「民は?」
少弐の声が低くなった。
伝令は慌てて続けた。
「先に逃がしております!」
少弐が顔を上げる。
別所勢は、村へ突然火を放っているのではなかった。
まず触れを出す。
羽柴勢が来る。
家を空けろ。
持てる米を持て。
牛馬を連れろ。
老人と子供を先へ出せ。
寺へ集まれ。
南へ行け。
人を逃がす。
持ち出せる食糧を持ち出す。
井戸まで潰すようなことはしない。
寺社もできる限り残す。
だが――
羽柴軍が宿営に使える家々は焼く。
村を空にする。
蔵を空にする。
橋を落とす。
そして別所勢もまた南へ退く。
少弐は地図を見たまま黙った。
「徹底してるな」
甚兵衛も笑わなかった。
「三木を失った以上、土地を渡しても使わせぬつもりでしょう」
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やがて、須磨へ向かう道そのものが変わり始めた。
兵だけではない。
人が来る。
百姓。
女。
老人。
子供。
荷車。
牛。
背負えるだけの米や衣類を持った者たち。
別所勢はその後ろにいた。
羽柴勢が迫れば橋を落とす。
道を塞ぐ。
小勢を残して追撃を止める。
そしてまた退く。
虎衆も合流した。
シレトクたちは、ここで初めて本領を発揮した。
戦うより、人を逃がす。
「こっちは通れる!」
「そっちは駄目だ!」
山道を知る虎衆が、避難民を分けた。
兵庫津へ向かう者。
須磨へ向かう者。
六甲山中の寺へ一時避難する者。
有馬方面へ抜ける者。
別所勢まで、その流れに混じって南へ落ちてくる。
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夕方。
須磨へ新しい報告が来た。
「別所長治殿、六甲山中へ!」
少弐は立ち上がった。
「無事か」
「はい!」
「赤井直正は?」
「別方向より六甲へ入ったとのこと!」
「岩蔵は?」
「おります!」
少弐はようやく息を吐いた。
三木城は失った。
丹波の騒乱も、明智が来れば長くは続かない。
波多野がどうなるかも分からない。
それでも――
人は戻ってくる。
別所長治。
赤井直正。
阿波辺岩蔵。
三木の残兵。
丹波から逃げた者。
そして避難してきた民。
少弐は甚兵衛へ言った。
「須磨だけじゃ足りない」
「兵庫津へ?」
「うん。寺も蔵も開けてもらおう」
さらに思い出した。
「潮音寺にも頼んでくれ」
夏に借り受けた寺だった。
戦のとき兵を置かせてもらうつもりだった寺が――今度は避難民を受け入れる場所になる。
「米を出そう」
「兵糧を?」
「食わせないと死ぬだろ」
甚兵衛が頷いた。
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夜。
少弐はまた地図を書き直した。
三木城の印は消した。
だが別所の駒は消さなかった。
六甲へ移す。
赤井直正。
阿波辺岩蔵。
同じく六甲。
丹波の山賊や国人を示していた細かな印は、すべて消した。
軍として存在しなくなったからだ。
少弐はそれを見て、妙な気分になった。
羽柴は勝っている。
三木を取った。
宇野を崩した。
赤松を退かせた。
丹波の騒乱には明智が向かっている。
地図だけなら、羽柴の勝ちだった。
だが羽柴が前へ進むたびに――
何も残っていない。
橋がない。
米がない。
宿がない。
村には人がいない。
倒したはずの別所長治は六甲にいる。
討つはずだった赤井直正も消えた。
山賊は山へ戻った。
少弐はその地図を見て、ようやく気づいた。
「これ、逃げてるんじゃないな」
甚兵衛が見る。
「では?」
少弐は三木から六甲へ続く線を指でなぞった。
「逃げながら戦場を持ってきてるんだ」
城を守る戦は終わった。
土地を守る戦も崩れた。
それでも人は残った。
そして人が残っている限り、次の場所でまた戦える。
三木城の炎を背に。
橋を落とし。
村を空にし。
民を南へ逃がしながら。
播磨の戦そのものが――
六甲へ向かって動き始めていた。




