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天正二年十月――城を捨てる者、山へ入る者

その夜、須磨へ来た伝令は、三木からではなかった。

六甲からだった。

「シレトク殿より!」

少弐は立ち上がった。

「三木は?」

伝令は息を整える間もなく答えた。

「燃えております!」

赤井甚兵衛が目を見開いた。

「落ちたのか!」

「違います!」

少弐が振り返る。

伝令は続けた。

「別所長治殿、自ら火を!」

少弐はしばらく意味を理解できなかった。

「……自分で?」

「はい!」

シレトクは三木へ入っていた。

黒田孝高が何度使者を送っても、別所長治は退かなかった。

羽柴を今度こそ播磨から追い返す。

三木を捨てれば何が残る。

そう言って戦い続けていた。

だが城外では状況が変わっていた。

福島。

若狭武田。

波多野。

人夫まで動員し、羽柴方は攻城具を組み始めている。

虎衆が夜ごと妨害しても、壊した翌日にはまた作る。

一つ焼けば二つを守る。

縄を切れば兵を増やす。

もう時間の問題だった。

そこでシレトクは、長治へ会った。

何をどう話したのか。

須磨に届いた報告には、そこまで書かれていなかった。

ただ最後に長治が折れた。

城ではなく、人を残す。

それを選んだ。

しかし三木城をそのまま羽柴へ渡すことだけは拒んだ。

その夜。

城内から火が上がった。

最初は羽柴方も何が起きたのか分からなかったという。

火の手。

叫び声。

城門付近の騒ぎ。

その混乱とほぼ同時に――

虎衆が動いた。

狙われたのは波多野勢だった。

城を救うためではない。

別所長治を逃がすためだった。

山中へ潜んでいた虎衆が夜陰から飛び出した。

矢。

銃声。

叫び。

馬が暴れる。

別の場所では資材へ火が入る。

羽柴勢からすれば、どこが本命なのか分からない。

城は燃えている。

外からは襲撃。

波多野勢が応戦に回る。

そこへ別所勢の一団が城を抜けた。

長治もいた。

虎衆は戦わない。

一撃を加える。

追われれば退く。

別の組が横から出る。

また退く。

追撃する羽柴勢を、少しずつ山へ引き込む。

そして六甲の山中へ入ったところで――

姿を消した。

そこから先は虎衆の場所だった。

「別所長治殿は?」

少弐が尋ねる。

伝令が答えた。

「六甲方面へ脱出したとのこと!」

少弐は座り込んだ。

「……逃げたか」

甚兵衛が笑った。

「逃げましたな」

少弐も笑った。

黒田が何度言っても聞かなかった男を、最後にはシレトクが連れ出した。

三木城は失った。

だが――

別所は残った。

少弐はすぐ命じた。

「追手を撒いたら休ませろ。須磨まで無理に連れてくる必要はない」

「はい!」

「それからシレトクに伝えてくれ」

少し考える。

「よくやった、と」

伝令が出ていった。

ところが、その日の知らせはそれで終わらなかった。

深夜。

今度は東から人が来た。

須磨の指揮所へ駆け込むなり叫んだ。

「丹波で騒乱!」

少弐と甚兵衛が同時に顔を上げた。

「誰だ」

聞くまでもなかった。

「赤井直正殿! 阿波辺岩蔵殿!」

少弐は思わず笑った。

「やったのか」

摂津を迂回して丹後方面へ向かわせた二人。

ただ兵を集めろとは言わなかった。

旧知を頼れ。

羽柴に不満のある者を探せ。

道を知る者を集めろ。

そう送り出した。

だが赤井直正と阿波辺岩蔵は、少弐が思っていた以上のものを拾った。

丹波国人。

旧臣。

羽柴・織田の支配に不満を持つ者。

そして――

山賊。

「山賊?」

少弐が聞き返した。

「はい!」

甚兵衛が頭を抱えた。

「直正殿らしい……」

まともな軍勢ではない。

旗も揃っていない。

武具もまちまち。

誰が何人率いているのかすら分からない。

だが土地を知っている。

山道を知っている。

抜け道を知っている。

そして織田方の蔵や街道がどこにあるのかも知っている。

赤井直正は彼らをまとめ上げた。

阿波辺岩蔵がその間を走った。

結果――

丹波各地で一斉に騒ぎが起きた。

関所が襲われる。

荷駄が止まる。

織田方に従った国人の館が囲まれる。

橋が落とされる。

道が塞がれる。

蔵から米が奪われる。

一つ一つは小さい。

城を落とすような戦ではない。

しかし数が多い。

「どれほどいる?」

少弐が聞いた。

「分かりませぬ!」

「直正殿はどこに?」

「それも!」

少弐は甚兵衛を見る。

甚兵衛も少弐を見る。

二人とも笑ってしまった。

「暴動じゃないか」

「暴動ですな」

だが笑っていられたのは一瞬だった。

少弐は地図を広げる。

丹波。

丹後。

建部山。

そして播磨。

羽柴秀吉が兵と兵糧を送り出している、その後ろだった。

「これは……」

甚兵衛も気づいた。

丹波を明智光秀に任せる。

その話を秀吉が信長へ働きかけていた。

なぜか。

背後を安定させるためだ。

その丹波が――

燃え始めた。

少弐は急に真顔になった。

「直正殿に伝令を出せ」

「止めますか」

「いや」

少弐は首を振った。

「やりすぎるな、とだけ言ってくれ」

甚兵衛が笑った。

「聞きますかな」

「聞かないだろうな」

それでも送った。

夜明け前。

須磨の西の空がわずかに白み始めた。

少弐はまだ地図の前にいた。

西。

赤松・宇野は崩れ、姫路へ退却中。

中央。

三木城は炎上。

しかし別所長治は生きて六甲へ逃れた。

北。

竹田城では黒田・須知らが羽柴勢と交戦。

東。

六甲には虎衆。

そしてそのさらに向こう――

丹波。

そこでは赤井直正と阿波辺岩蔵が国人と山賊を巻き込み、騒乱を起こしている。

甚兵衛が言った。

「負けておりますな、我ら」

少弐は地図を見る。

城を失った。

将を失った。

土地も失っている。

確かに負けている。

「そうだな」

だが奇妙だった。

羽柴が前へ進むほど、後ろで別の火が上がる。

一つを潰すと、別の場所から人が逃げる。

城を取れば、城主が山へ入る。

国を押さえれば、国人が山賊と組む。

少弐は建部山の印を見た。

秀吉はまだ、そこにいる。

「そろそろ向こうにも知らせが届くな」

三木炎上。

別所長治脱出。

丹波騒乱。

それらの報告が、今度は建部山へ集まり始める。

須磨に勝った負けたの知らせが集まっているように。

少弐は少しだけ笑った。

長い播磨攻めが始まって以来――

初めてだった。

羽柴秀吉の後ろにも、戦場が生まれた。

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