天正二年十月――須磨の陣
摂津が空いている。
少弐は、その意味を考え続けていた。
羽柴勢は宇野領へ入り、別働隊を宇喜多方面へ迂回させた。丹波からは六甲へ向かう兵があり、但馬では竹田城方面にも軍勢が動く。
それなのに摂津だけが薄い。
罠かもしれない。
誘っているのかもしれない。
だが――使える空白でもあった。
少弐は赤井直正を呼んだ。
「直正殿」
「何だ」
「摂津を回って、丹後へ入れないか」
赤井は少弐を見る。
「丹後へ?」
少弐は地図に指を走らせた。
正面から丹波へ入るのではない。
摂津側を回り、羽柴の目を避けながら丹後方面へ抜ける。
「直正殿なら、あちらに旧知がいるだろう」
赤井はしばらく地図を見た。
少弐の意図を察した。
羽柴は丹後を押さえた。
だが、土地を押さえることと、人の心まで完全に押さえることは違う。
旧臣。
国人。
寺社。
商人。
羽柴の所領安堵を受けながらも、まだ様子を見ている者。
赤井なら話のできる相手がいる。
「集めろと?」
「兵だけじゃない」
少弐は答えた。
「話のできる者を集めてほしい。道を知っている者。羽柴の荷がどこを通るか知っている者。こちらに力を貸してもいいと思っている者」
赤井は一度だけ頷いた。
「承った」
それだけだった。
「岩蔵を連れていってくれ」
阿波辺岩蔵が呼ばれる。
事情を聞くと、こちらも迷わなかった。
こうして赤井直正と阿波辺岩蔵は、表立った大軍を率いることなく兵庫津を離れた。
目指すのは丹後。
秀吉のいる建部山の背後だった。
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少弐自身も清盛館には残らなかった。
「須磨へ行く」
ライラにはそれだけ伝えた。
今度の戦では、兵庫津まで敵を待たない。
前回、最後の防衛線になった場所。
今回は最初からそこを指揮所にする。
須磨の潮音寺にはすでに有事の駐屯について話をつけてある。
少弐は寺そのものを占拠するような真似はせず、境内に隣接する建物と仮設の陣屋を借りて指揮所を置いた。
寺の鐘が鳴る。
その向こうには海。
背後には六甲。
西へ行けば姫路。
東へ戻れば兵庫津。
少弐は到着すると、すぐに地図を広げた。
ここから戦を見る。
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一方、渡辺には帰還命令を出さなかった。
むしろ逆だった。
山城に留まれ。
少弐は自筆で書状を書いた。
> 兵庫へ戻る必要なし。
そのまま山城に潜み、織田・羽柴両家の動静を拾われたし。
誰が西へ向かい、誰が北へ戻り、信長公が何を命じたか。戦の勝敗より、それを知らせよ。
北陸では柴田と上杉の衝突が本格化している。
秀吉がどれほど播磨攻めを準備していても、信長の一声で兵の流れは変わる。
だから渡辺は戻さない。
播磨の戦場から遠いところにいる渡辺が、かえって一番重要なものを見る可能性があった。
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そして主力。
ここは黒田孝高と須知に預けた。
「二人は姫路へ」
黒田が少弐を見る。
「少弐殿は?」
「須磨にいる」
少弐は地図を指した。
「俺まで姫路へ行ったら、全部西へ寄る」
姫路の西光寺。
夏のうちに借り受け、井戸と蔵を確認し、有事には兵を置く約定を結んだ場所。
そこへ正規兵の主力を集める。
ただし一塊にはしない。
黒田。
須知。
そして、すでに鷹衆三百を率いて入っているスリフォン。
三者で見る方向を分けた。
少弐はスリフォンへ命じた。
「西を見ろ」
宇喜多方面へ回った羽柴別働隊。
赤松領。
宇野領。
そこから姫路へ押し寄せてくるものをスリフォンに見させる。
「追う必要はない」
「はい」
「西から来る者を受け取れ。赤松でも宇野でも、退いてきたら入れろ」
スリフォンが頷いた。
次に黒田。
「官兵衛は北」
黒田には説明するまでもなかった。
竹田城方面。
但馬。
そこから播磨へ落ちてくる羽柴勢。
黒田は地図を見ながら答えた。
「北が崩れれば姫路へ?」
「無理に止めるな」
少弐は言った。
「姫路で勝つ必要はない」
黒田が少弐を見る。
少弐は続けた。
「姫路を使って、軍を残してくれ」
須知には正規兵の統制を任せる。
西光寺を中心に、兵糧、傷兵、増援、伝令を整理する。
こうして少弐側も、一人の将が全部を見る形を捨てた。
西――スリフォン。
北――黒田。
姫路の正規兵――須知。
六甲――シレトクと虎衆。
丹後――赤井直正・阿波辺岩蔵。
山城――渡辺。
そして少弐は、
須磨。
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夜。
潮音寺の近くに設けた指揮所で、少弐は一人、地図を見ていた。
不思議な配置だった。
自分の周りには、それほど兵を置いていない。
主力は姫路。
虎衆は六甲。
赤井は丹後へ向かった。
渡辺は山城。
西国の船は海。
それぞれが遠く離れている。
少弐はふと、建部山の秀吉を思った。
本人は動かない。
兵だけが各地へ出る。
兵糧だけが流れる。
諸将がそれぞれの戦場を受け持つ。
「……真似したみたいで嫌だな」
誰に言うでもなく呟いた。
だが、違うところもあった。
秀吉は外から播磨を包もうとしている。
少弐は播磨の中から、切られてもつながり直せるように人を置いた。
西が破られても北がある。
北が破られても須磨へ退ける。
陸が切られれば海を使う。
そして羽柴の後ろには赤井を回す。
少弐は最後に、摂津の空白を見た。
そこを通って赤井直正が北へ向かっている。
秀吉がなぜ摂津を空けたのか。
まだ分からない。
ならば――
空いているうちに使わせてもらう。
少弐は地図を畳まなかった。
須磨の外では海の音がしていた。
長い播磨攻めが始まってから初めて、少弐側もまた――
一つの軍ではなく、一つの戦場として動き始めていた。




