天正二年十月――播磨侵犯
十月。
その報せは、ついに来た。
清盛館へ駆け込んできた虎衆の男は、泥のついたまま膝をついた。
「羽柴勢、宇野領へ入りました!」
少弐が立ち上がる。
黒田孝高はすぐに地図を引き寄せた。
「数は」
「分かりませぬ。ですが一手ではありません」
後から入ってきたシレトクが引き継いだ。
「北から入った兵とは別に、西へ回っている」
「西?」
少弐が聞き返した。
シレトクの指が播磨からいったん西へ出た。
宇喜多方面。
そして、そこから再び東へ曲がる。
「こっちから赤松の方へ行こうとしている」
黒田の顔が変わった。
「迂回したか」
少弐も地図を覗き込んだ。
北からだけではない。
但馬を押さえた羽柴勢がそのまま播磨北部へ雪崩れ込む――それだけを考えていたわけではなかった。
一部を西へ回す。
宇喜多領との境を利用し、赤松勢の側面へ出る。
どこまで宇喜多と話がついているのかは分からない。
だが少なくとも、
羽柴軍が宇喜多方面を通ることを前提に動いている。
「始まったな」
少弐が言った。
誰も答えなかった。
何か月も備えてきた。
須磨。
姫路。
書写寺。
家島。
虎衆を散らし、道を調べ、寺を借り、蔵を整えた。
それでも実際に国境を越えられると、地図の線一本が急に重くなった。
少弐はスリフォンを見た。
「姫路へ行ってくれ」
スリフォンはすぐに立った。
「鷹衆を?」
「連れていけ」
三百。
まだ新参のスリフォンに預けた鷹衆だった。
「前に見せた寺を覚えているな」
「はい」
姫路で黒田が借り受けていた寺――西光寺。
大寺ではない。
だが井戸があり、蔵があり、周囲の街道へ出やすい。
そして少弐が八月、スリフォン自身を連れて歩いた場所でもあった。
あのとき少弐は言った。
姫路は最後まで戦う場所ではない。
人と物を受け止め、次へ流す場所だ。
「西光寺へ入れ」
「守ります」
少弐は首を振った。
「違う」
スリフォンが止まった。
「寺を守るために三百を使うな」
少弐は姫路を指した。
「北から来る者を拾え。西から逃げてくる者も拾え。虎衆の報せをまとめろ。傷ついた兵が来たら休ませろ。米が来たら須磨へ送れ」
そして、
「危なくなったら退け」
と付け加えた。
スリフォンは少弐を見た。
「どこまで?」
「須磨まで」
「姫路を捨てても?」
「捨てろ」
少弐は即答した。
「寺も城も取り返せる。お前たちは取り返せない」
スリフォンはしばらく黙ってから、深く頭を下げた。
その日のうちに鷹衆三百が兵庫津を出た。
西へ。
姫路へ。
いよいよ、少弐たちが夏から作ってきた兵站線が使われ始めた。
しかし問題は、その先だった。
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黒田はすぐに播磨諸氏へ使者を出した。
宇野。
赤松。
別所。
その他、羽柴勢の進路に当たる諸氏。
内容は明快だった。
退け。
城を捨てても構わない。
野戦で決着をつけようとするな。
羽柴勢の進撃を遅らせながら姫路方面へ後退し、兵を残せ。
少弐たちが須磨・姫路・家島に用意した線へ合流すればいい。
ところが――
返事は黒田の望んだものではなかった。
最初に強く拒んだのは宇野だった。
「ここは宇野の領地である」
使者にそう言ったという。
「羽柴が勝手に踏み込んできたというのに、なぜ我らが退かねばならぬ」
赤松からも似た返答が来た。
先祖以来の播磨。
城。
土地。
家臣。
領民。
それを敵が来たからといって、戦わず明け渡すことなどできない。
黒田は返書を読んで、目を閉じた。
少弐には内容を聞く前から分かった。
「駄目だったか」
「駄目です」
「別所は?」
「退く気は薄いようです」
少弐は頭を掻いた。
黒田は地図を指した。
「ここで戦えば、羽柴の思うところです」
北から羽柴勢。
西から迂回勢。
その間で赤松・宇野がそれぞれ自領を守ろうとすれば、軍勢が分断される。
一つずつ相手にされる。
「もう一度使者を出します」
黒田は言った。
「城を守るなとは申しませぬ。守れるだけ守り、退路があるうちに退けと」
少弐は頷いた。
だが、その使者が戻ってきても答えは変わらなかった。
徹底抗戦。
赤松も。
宇野も。
播磨の国人として、ここで退くことを拒んだ。
少弐は怒らなかった。
むしろ困ったように地図を見ていた。
「意地か」
黒田が答える。
「播磨の意地なのでしょう」
「分からなくはない」
少弐も、自分の土地へ敵が入ってきて「後で取り返せばいいから逃げろ」と言われて素直に従えるかと考えた。
難しい。
まして赤松は播磨に長く根を張った家である。
宇野も、自分たちの土地を自分たちで守ってきた。
兵庫津から来た少弐に、
生き残るために故郷を捨てろ
と言われても、理屈だけでは動けない。
だが黒田は違った。
「死ねば終わりです」
珍しく強い声だった。
「土地を守るために家がなくなって、何が残ります」
少弐は黒田を見る。
黒田自身も播磨の人間だった。
だからこそ腹が立つのだろう。
「官兵衛」
「はい」
「もう一度だけ書いてくれ」
黒田が頷く。
「何と」
少弐は少し考えた。
「戦うなとは言わない」
それでは聞かない。
「ただ――」
地図上の赤松、宇野から姫路へ指を引いた。
「負ける前に退け。」
黒田は黙って聞いた。
「勝てるなら戦えばいい。城も守ればいい。でも退路が切られる前に退いてくれ。姫路にはスリフォンがいる。その後ろには須磨がある」
さらに海を指した。
「家島も使える」
播磨を一城ずつ守るつもりはない。
一戦ずつ勝つつもりもない。
兵を残す。
道を残す。
次に戦える場所まで下がる。
それを繰り返す。
少弐が夏から準備してきたのは、そのためだった。
だが赤松も宇野も、まだそれを受け入れなかった。
自分たちの土地で戦う。
自分たちの城を守る。
羽柴に一歩も譲らない。
そう返してきた。
少弐は返書を畳んだ。
「仕方ない」
黒田が顔を上げる。
「見捨てますか」
「逆だ」
少弐は地図を見た。
「退いてこないなら、退いてこられる道だけは残しておこう」
姫路の西光寺にはスリフォン。
その後方には須磨。
海には家島。
虎衆には赤松・宇野の戦線を重点的に見るよう命じた。
少弐は彼らの意地を止められなかった。
ならば、その意地が折れたとき――
生きて帰ってこられる場所を用意しておく。
十月。
羽柴軍はついに宇野領を侵犯した。
別働隊は宇喜多方面へ回り込み、赤松領を目指した。
播磨諸氏は退かなかった。
そして少弐は、そんな彼らの後ろに道を作った。
長い播磨攻めは――
こうして始まった。




