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天正二年九月――北からの急報

それでも、秀吉は動かなかった。


但馬では山名が下り、秀長が諸氏の所領安堵をまとめている。


前田や堀らは西へ置かれ、毛利への備えを固めた。


建部山には相変わらず兵と米が集まり、そこから各方面へ散っていく。


だが秀吉本人について虎衆が持ち帰る報告は、毎回同じだった。


「建部山」


少弐は、もう驚かなくなっていた。


「今度は何をしてる?」


渡辺から届いた山城筋の報せを、黒田孝高が開いた。


「明智殿のようです」


「光秀殿?」


「はい」


どうやら秀吉は、明智光秀を丹波に置くよう信長へ働きかけているらしい。


少弐は地図を見る。


「動かさないのか」


「むしろ、動かさないための話でしょうな」


黒田の指が丹波に置かれた。


明智光秀。


その北には丹後。


西には但馬。


南西には播磨。


秀吉が建部山から全体を動かすなら、背後の丹波が不安定では困る。


ならば、そこを誰に任せるか。


「光秀殿なら丹波を任せられる」


少弐は納得した。


黒田も頷く。


「羽柴殿が自分で丹波を抱える必要がなくなります」


「但馬は小一郎」


「はい」


「西は前田や堀」


「そして丹波には明智」


少弐は建部山を指した。


「では、秀吉は?」


黒田は答えなかった。


答える必要がなかった。


どこにも縛られない。


そのために一つずつ人を置いているように見えた。


少弐は嫌そうに笑った。


「まだ増やす気だな」


ところが――


その日の午後だった。


別の使者が清盛館へ駆け込んできた。


山城からではない。


もっと北。


越前方面から回ってきた知らせだった。


「北で戦にございます!」


黒田が振り返る。


少弐も立ち上がった。


「誰と誰だ」


「柴田殿と――上杉勢!」


部屋の空気が変わった。


これまでにも両者の緊張は伝わっていた。


越前へ入った織田勢。


その北にいる上杉謙信。


互いに兵を出す。


物見がぶつかる。


小勢が追い払われる。


渡河を妨害する。


だが、いずれも牽制の範囲だった。


それが変わった。


「川を巡って双方が衝突。柴田勢が兵を出し、上杉方も引かず、かなりの人数がぶつかったとのこと」


「川?」


少弐が地図を求めた。


播磨の地図が退けられ、北陸のものが広げられる。


黒田が越前から加賀・越中方面へ指を走らせる。


まだ情報は粗い。


どちらが先に仕掛けたのか。


どれほどの兵なのか。


本格的な侵攻なのか。


現地指揮官同士の衝突が拡大しただけなのか。


何も分からない。


ただ一つだけはっきりしている。


柴田と上杉が、本当に戦った。


少弐が低く言った。


「謙信公が動くのか」


黒田は慎重だった。


「まだ分かりませぬ。しかし柴田殿だけでは収まらなくなれば――」


その先は言わなくても分かった。


信長が動く。


信長が北へ兵を求める。


そうなれば西国にも影響する。


少弐の目が丹波へ戻った。


「光秀殿を丹波へ置く話は?」


「この知らせ以前のものです」


「なら、変わるかもしれないな」


黒田も頷いた。


秀吉がどれほど西国戦略を組み立てても、その上には信長がいる。


信長が上杉との戦いを重大と判断すれば、明智を動かすかもしれない。


佐久間を戻すかもしれない。


前田を呼ぶかもしれない。


あるいは秀吉自身に別の命令を出す可能性さえある。


そこへシレトクが口を挟んだ。


「じゃあ、秀吉は来ない?」


少弐はすぐには答えなかった。


播磨。


但馬。


丹後。


丹波。


越前。


さらにその北。


地図を次々と並べていく。


そして首を振った。


「分からん」


シレトクを見る。


「だから、まだ見ていてくれ」


「道?」


「今度は道だけじゃない」


少弐は言った。


「戻る兵も見てくれ」


黒田が少弐を見る。


なるほど、と頷いた。


建部山へ集まっていた兵が北へ戻り始めれば、信長が西国より上杉を重く見た証拠になる。


逆に何も動かなければ――


西国攻略は予定通り続く。


渡辺にもすぐ書状を出した。


山城で見るべきものも変わった。


明智が丹波へ入るかどうか。


信長から誰に使者が走ったか。


北陸へ向かう兵が増えたか。


西へ向かう兵が減ったか。


そして何より、


信長自身がどちらを見るのか。


その夜、清盛館には二枚の地図が広げられたままだった。


一枚は播磨。


もう一枚は北陸。


少弐はその間に座っていた。


西では、秀吉が動かない。


北では、柴田と上杉が動き始めた。


そしてその二つの戦場をつないでいるのは、織田信長だった。


少弐は北陸の地図を見ながら呟いた。


「これで大殿がどっちを見るかだな」


秀吉が建部山で何を待っているのか。


少弐にはまだ分からない。


だが天正二年九月――


西国で戦が始まるより先に、北陸で戦の方が秀吉たちを呼び始めていた。

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