天正二年九月――虎衆の目あ
九月に入るころ、但馬はようやく静まり始めた。
羽柴秀長は、降った諸氏を一つずつ呼び出した。
誰がどこを領するのか。
以前の所領をどこまで認めるのか。
どの城を残すのか。
軍役はいかほどか。
街道の通行を妨げないこと。
羽柴方へ敵対する者を領内へ入れないこと。
曖昧なまま放置せず、一つずつ約定にしていった。
所領を安堵された但馬の諸氏も、ようやく兵を田畑へ戻し始めた。
少弐のもとへ届く報告だけを読めば、
但馬攻めは終わった。
そう見えた。
だが、羽柴方は兵をすべて引かなかった。
前田。
堀。
そのほか信長から借り受けた諸将の一部が、西寄りの城や街道へ残された。
向いている先は播磨ではない。
さらに西だった。
毛利。
黒田孝高は地図を見ながら言った。
「毛利への備えでしょうな」
「だろうな」
少弐もそれには異論がなかった。
但馬を取った以上、西から来る勢力を無視するわけにはいかない。
羽柴方が山陰側へ防壁を作るのは当然だった。
それならば、少し時間ができる。
少弐はそう考えかけていた。
そこへシレトクが戻ってきた。
清盛館へ入ってきたシレトクは、いつものように大げさな前置きをしなかった。
「少弐」
「どうした」
「変だ」
その一言で、黒田も地図の前へ戻った。
少弐が聞く。
「何が?」
シレトクは但馬を指さなかった。
もっと東だった。
丹後。
建部山。
「人が減っていない」
少弐の目が細くなる。
「但馬が終わったのに?」
シレトクは頷いた。
虎衆は播磨の国境だけを見ていたわけではない。
街道。
宿。
渡し。
市場。
荷を扱う商人。
馬喰。
山仕事へ入る者。
そうした場所へ少人数で散り、羽柴方の動きを拾っていた。
シレトクは一枚の紙を広げた。
字だけではない。
印がいくつも付いている。
「但馬へ行った兵はいる」
「うん」
「残った兵もいる」
「それも分かる」
「でも、また来ている」
少弐が顔を上げた。
「どこへ?」
シレトクの指が建部山を叩いた。
「ここ」
兵。
荷駄。
米。
馬。
人夫。
但馬が落ち着いたにもかかわらず、建部山への流れが止まっていない。
そして虎衆が見ていたのは、それだけではなかった。
「この道」
シレトクが一本を示す。
「三日前、馬が多かった」
別の場所。
「ここは米」
さらに南。
「ここで道を直している」
黒田が身を乗り出した。
「誰が?」
「分からない。でも兵ではない。村の者と、人夫」
「どちらへ向けて道を直していた?」
シレトクが指を動かす。
南。
そこで止めた。
播磨だった。
部屋が静かになった。
少弐は紙を受け取った。
一つ一つなら、何でもない情報だった。
米が運ばれた。
馬が増えた。
道を直した。
人夫が集まった。
それだけなら戦の証拠にはならない。
だが、それが何十と集まると違う。
少弐は思わず笑った。
「よく見てるな、お前たち」
シレトクは首を傾げた。
「見るように言ったのは少弐だ」
「そうだけどな」
少弐は紙を黒田へ渡した。
「虎衆にこんな使い方ができるとは思わなかった」
黒田は笑わなかった。
むしろ何度も紙を見直していた。
「これは兵を数えるより役に立ちます」
少弐も頷いた。
敵の兵が一万か、一万二千か。
そんな数字は日によって変わる。
だが道は嘘をつかない。
百人しか通らない道を、わざわざ何日もかけて直す必要はない。
馬を大量に集めるのにも理由がある。
米を一か所へ積むのにも理由がある。
「秀吉は?」
少弐が聞いた。
シレトクは即答した。
「建部山」
まただった。
少弐は天井を見た。
「まだいるのか」
但馬は終わった。
秀長は但馬諸氏との約定をまとめた。
前田や堀は西を向き、毛利に備えている。
それでも秀吉は建部山から動かない。
そして建部山には、まだ物が集まっている。
黒田がゆっくり地図の上へ手を置いた。
「但馬攻めのための兵糧ではなかった、ということでしょう」
少弐も同じことを考えていた。
但馬攻略は一つの工程にすぎない。
その先がある。
少弐はシレトクを見る。
「虎衆を戻すな」
「うん」
「むしろ増やそう」
「どこを見る?」
少弐は少し考えた。
そして答えた。
「兵を見るな」
シレトクが笑った。
もう意味が分かっていた。
「道を見る」
「そう」
「米も」
「馬もな」
「船は?」
少弐は一瞬黙った。
それから笑った。
「見る」
黒田が付け加えた。
「鍛冶屋も見てください。矢、槍、馬具。急に注文が増えれば知らせを」
シレトクが頷く。
少弐は地図を見た。
但馬では戦が終わった。
だからといって、羽柴の戦が終わったわけではない。
むしろ静かになったことで、それまで戦の音に隠れていたものが見えるようになった。
道。
米。
馬。
人夫。
そして建部山。
少弐は虎衆の報告書をもう一度手に取った。
秀吉はまだ動かない。
だが――
秀吉が次に動かそうとしているものを、虎衆は少しずつ見つけ始めていた。




