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天正二年八月――動かぬ男

但馬攻めは、戦というよりも地図の色が塗り替えられていくように進んだ。


一城が開く。


次の城へ使者が走る。


所領安堵。


旧領の確認。


人質。


軍役。


街道の通行。


条件が整えば、羽柴方は無理に攻めなかった。


そしてまた一城が開いた。


清盛館へ届けられる報告も、次第に単調になっていった。


「開城」


翌日も、


「開城」


さらに、


「羽柴方へ帰順」


少弐はとうとう報告を置いた。


「戦ってないじゃないか」


黒田孝高が答える。


「戦わずに済むようにしているのでしょう」


「それが困る」


少弐の言う通りだった。


羽柴軍が城一つごとに血を流してくれれば、その分だけ播磨へ来る時期は遅れる。


兵も減る。


矢も減る。


米も食う。


負傷者も増える。


だが、そうならなかった。


尾張以来の諸将が前へ進むほど、その名そのものが圧力になった。


抵抗して城を焼かれるより、所領を残した方がいい。


そう判断する者が増えた。


そしてついに、山名から使者が出た。


少弐がその知らせを受けたのは、清盛館で鐘丸の泣き声を遠くに聞きながら、黒田と地図を見ているときだった。


「山名が?」


「下ったとのこと」


少弐は但馬を見た。


「早かったな」


それだけだった。


だが、その意味は重かった。


但馬という一国が、羽柴方の後背ではなくなった。


街道が使える。


城が使える。


蔵が使える。


在地の兵も使える。


そして何より、北から播磨へ下りる道を羽柴方が使える。


黒田が山名の駒を動かした。


「これで但馬は、ひとまず片づいたと見てよいでしょう」


少弐は返事をしなかった。


数日後、さらに報告が届いた。


羽柴秀長が但馬に入った。


そして山名が下った後の一角に指揮所を置き、そのまま居座った。


帰らない。


丹後へ戻らない。


建部山へも戻らない。


但馬に残り、降った国人を整理し、城々へ兵を配置し、播磨へ通じる道を調べ始めたという。


少弐はそこで初めて嫌な顔をした。


「小一郎は残るのか」


黒田が頷いた。


「そのようです」


「では但馬攻めのための陣ではないな」


「おそらく」


但馬攻略が終わったのに、秀長は帰らない。


ならば、その指揮所には次の役目がある。


少弐の目が南へ落ちる。


播磨。


だが、さらに妙なことがあった。


「秀吉は?」


少弐が聞いた。


報告を持ってきた者は答えた。


「建部山におります」


少弐が顔を上げた。


「まだ?」


「はい」


黒田も黙った。


但馬が落ちた。


山名が下った。


秀長が但馬に指揮所を置いた。


普通なら総大将が前へ出てもよい。


少なくとも丹後の建部山から但馬へ本営を移してもおかしくない。


ところが――


秀吉は動かなかった。


数日待った。


また報告が来た。


建部山へ兵糧が入った。


兵が入った。


馬が入った。


そして各地へ散った。


秀吉はいる。


動かない。


また数日。


但馬では秀長が諸将をまとめている。


播磨との境では人が増えた。


山道を調べる者もいる。


それでも秀吉は建部山。


少弐はついに言った。


「何で来ない?」


黒田は地図を見ていた。


「来る必要がないのでしょう」


少弐が黒田を見る。


「但馬には秀長殿がおります」


黒田は但馬を指した。


「丹後には建部山がある」


次に丹波。


そして播磨。


「羽柴殿が但馬へ出れば、但馬の将になります」


黒田の指が建部山へ戻った。


「ここにいれば、全部を見ることができる」


少弐はしばらく黙っていた。


以前の秀吉なら、前へ出てきた。


城を攻めた。


兵を叱咤した。


敵の顔を見た。


だから少弐たちも秀吉を見ていればよかった。


今回は違う。


前には秀長がいる。


その周囲には佐久間や前田をはじめとする諸将。


但馬には降った山名と国人。


後ろからは兵と兵糧が流れ続ける。


そのすべてのさらに後ろに――


秀吉がいる。


少弐は建部山の印を指先で叩いた。


「……あいつが一番後ろにいるのか」


黒田が答えた。


「そして、一番後ろから全部を動かしております」


少弐は少し笑った。


だが楽しそうではなかった。


「前より面倒になったな」


秀吉はまだ、一歩も播磨へ近づいていない。


それなのに羽柴の戦線だけが、確実に播磨へ近づいていた。


但馬には秀長が残った。


山名は下った。


北から播磨へ続く道が開いた。


そして建部山では――


秀吉だけが、まだ動かなかった。

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