天正二年八月――帰る場所
須磨から兵庫津へ戻った少弐は、その日のうちに有馬へ使いを出した。
用件はライラだった。
羽柴秀吉はいまだ建部山城から動かない。
しかし但馬では羽柴秀長をはじめ、信長から借り受けた諸将が動き始めている。丹波、丹後、但馬と羽柴方の軍事線がつながれば、次にどこへ兵が出てくるか分からない。
有馬は山の中にある。
これまでは兵庫津から少し離れた静かな場所として、ライラと子供たちを住まわせるには都合がよかった。
だが今度は、その山が危ない。
少弐自身が有馬へ行った。
「一度、出てくれ」
ライラは荷を整理する手を止めた。
「どこへ?」
「伊丹でもいい。もっと離れるなら堺でもいい」
少弐はできるだけ軽く言った。
「しばらくだ。秀吉がどこから来るか分からない。有馬まで戦になるとは思っていないが――」
「行かない」
早かった。
少弐が黙る。
「いや、だからな」
「行かない」
ライラはもう一度言った。
少弐は困った。
「安全なところへ行けと言っているんだぞ」
「だから兵庫へ行く」
今度は少弐が目を瞬いた。
「兵庫?」
「清盛館」
ライラは当然のように言った。
少弐はしばらく言葉が出なかった。
「そこが一番危ないだろう」
「あなたがいる」
「俺がいるから危ないんだ」
「なら、あなたが守る」
まったく譲らなかった。
ライラにとっては、それで話が終わっているらしい。
少弐は何か言おうとしたが、やめた。
ライラは少弐が必ず勝つと思っているわけではなかった。
戦が何をするものなのかも知っている。
それでも――少弐を信じた。
だから遠くへ逃げるのではなく、夫が守ろうとしている兵庫津へ移ることを選んだ。
その日のうちに、有馬の宿では荷造りが始まった。
雲丸は一歳十か月になっていた。
もう自分の足でかなり走る。
大人が忙しく荷を運んでいる間も、何が起きているのかよく分からないまま、宿の中をあちらこちら歩き回っていた。
鐘丸はまだ生まれて二月あまり。
こちらはライラの腕に抱かれたままである。
少弐が荷を確認していると、突然、雲丸が何かを見つけた。
「あ」
宿の端。
少し離れたところに、一匹の犬が座っていた。
藤吉郎だった。
雲丸の顔が一瞬で明るくなった。
「とぅー!」
走り出した。
「雲丸、待て」
少弐が呼ぶより早い。
「とぅとーきー!」
まだ藤吉郎とは言えない。
「とぅー、とぅとーきー!」
雲丸は懸命に走った。
途中で少しよろけた。
それでも止まらない。
藤吉郎は座ったまま、その小さな人間が自分へ向かってくるのを見ていた。
そして雲丸がたどり着く。
そのまま犬の首へ両腕を回した。
「とぅとーきー!」
藤吉郎は逃げなかった。
むしろ慣れた様子で、雲丸に抱きつかれるままになっている。
尻尾だけが地面を叩いた。
少弐は思わず笑った。
「お前、それだけはちゃんと見つけるんだな」
ライラも鐘丸を抱いたまま笑っていた。
雲丸は藤吉郎から離れない。
荷物が運ばれても、馬が用意されても、犬の首を抱いて何やら一生懸命話しかけている。
言葉の半分も意味になっていない。
それでも藤吉郎には通じているらしかった。
「その犬はどうする?」
少弐が聞いた。
ライラは即答した。
「連れていく」
「だろうな」
こうして藤吉郎まで避難の一行へ加わった。
有馬から兵庫津へ。
大人たちにとっては、戦を見越した移動だった。
ライラは鐘丸を抱く。
雲丸は途中まで歩きたがり、疲れれば抱かれ、それでも藤吉郎がどこにいるかだけは何度も確かめた。
犬が少し先へ行けば、
「とぅー!」
と呼ぶ。
藤吉郎が振り返る。
それだけで雲丸は安心した。
やがて兵庫津が見えてきた。
清盛館。
少弐が出入りし、黒田や赤井たちが集まり、各地から報告が届けられる場所。
これから戦になれば、もっとも忙しくなる場所でもある。
少弐は到着すると、もう一度ライラに言った。
「今からでも堺へ行けるぞ」
ライラは鐘丸を抱いたまま、少弐を見た。
「行かない」
そして清盛館へ入っていった。
その後ろを雲丸が歩く。
さらに藤吉郎がついていく。
少弐はしばらく三人と一匹の背中を見ていた。
建部山では秀吉が兵糧を動かしている。
但馬では軍勢が戦っている。
須磨、姫路、家島では、これから来る戦に備えて守りを整えている。
そんな中で、少弐の家族は安全な場所へ遠ざかるのではなく――
少弐が守ろうとしている場所へ帰ってきた。




