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天正二年八月――海を渡ってきた僧

須磨で借り受けた寺を見て回っていた少弐のもとへ、その知らせが届いたのは昼を少し過ぎたころだった。


「少弐殿。兵庫津に、異国の僧が参っております」


少弐は井戸を覗き込んでいた顔を上げた。


「どこの?」


「しゃむ……とか」


少弐の動きが止まった。


傍らにいた黒田孝高が振り返る。


スリフォンはもっと早かった。


「アユタヤですか」


使者が何度も頷いた。


「そのように申しております」


少弐はしばらく何も言わなかった。


アユタヤを離れて、およそ三月。


あの暑さも、寺院の姿も、スリフォンのどこか沈んだ表情も、まだ鮮明に覚えている。


「本当に来たのか」


少弐は呟いた。


その日のうちに一行は兵庫津へ戻った。


僧は間違いなく、アユタヤで少弐たちが世話になった寺院に連なる者だった。


商船を頼り、港を渡り、船を乗り継いできたという。


少弐は呆れ半分、感心半分で話を聞いた。


「よくここまで来られたな」


僧は穏やかに笑った。


スリフォンが通訳に入り、しばらく言葉を交わす。


問題は、その後だった。


少弐が黒田を見る。


「官兵衛」


黒田は嫌な予感がしたらしい。


「なんでしょう」


「須磨へ戻ろう」


「今からでございますか」


「この方も一緒に」


案の定だった。



---


須磨には、黒田が話をつけた寺があった。


古くから海辺の人々の信仰を集めてきた小寺で、ここでは仮に潮音寺と呼ばれていた。


大寺ではない。


だが海へ通じる道に近く、高所からは須磨の海を望むことができた。


少弐たちは寺へ修繕費を寄進し、有事には境内の一角へ兵を置く許しを得ている。


その潮音寺へ、少弐はアユタヤの僧を連れていった。


住持には頭を下げた。


「しばらく、この方を置いていただけないでしょうか」


住持が異国の僧を見る。


衣も違う。


言葉も違う。


拝み方にも違いがある。


だが僧であることだけは分かった。


「どちらのお方で」


「シャムです」


住持が黙った。


「……どこでございます」


少弐も少し困った。


「ずっと南です」


黒田が横から、


「海をいくつも越えた先にございます」


と補った。


それで住持がますます驚いた。


少弐は、寺に置いてほしいと言っても、宗派を変えてくれという話ではないことを説明した。


寝起きする一室。


経を読む場所。


日本の僧と話せる場所。


それだけあればいい。


必要な費用はこちらで持つ。


住持はしばらく考えた末、受け入れてくれた。


少弐は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


寺を出るころには、夕方になっていた。


三人は海を見ながら歩いた。


黒田が聞いた。


「それで、あの御坊を須磨へ置いて、どうなさるので?」


「しばらく日本を見てもらう」


少弐は答えた。


「日本の寺も見たいだろうし、こっちの坊さんにもシャムの仏教を聞いてもらえばいい」


スリフォンは黙って海を見ていた。


少弐はそんな彼の横で、突然沖を指した。


「それでな」


黒田がまた嫌な予感を覚えた。


少弐の指の先には、播磨灘がある。


さらにその先。


家島。


「いずれ、あそこに寺を造りたい」


黒田が目を細めた。


「砦ではなく?」


「寺だ」


少弐は即答した。


「ちゃんとした寺」


スリフォンも少弐を見る。


「なぜ家島に?」


「船が通るからだ」


少弐は海を眺めた。


瀬戸内を東西へ行き交う船。


兵庫津へ来る船。


西国へ向かう船。


遠く九州へ行く船。


その先からは朝鮮や琉球、南方へ向かう船さえある。


少弐自身、その海を何度も通ってきた。


そして海が穏やかな日ばかりではないことも知っていた。


「俺たちは家島を、見張り場所にしようとしている」


黒田は頷いた。


「その話でしたな」


「でも、それだけというのも嫌だ」


少弐は言った。


「戦が終わったら要らなくなる砦より、船に乗る者がずっと使えるものを残したい」


家島に寺を建立する。


海上を往来する者の安全を祈る。


兵庫津から西へ旅立つ者が立ち寄る。


西から来た者も手を合わせる。


遭難した者があれば供養する。


異国から来た僧も泊まれる。


そして、航海者が持ってきた話を残す。


黒田が少弐を見た。


「随分と大きな寺になりそうですな」


「だから将来だ」


少弐は笑った。


「今は金も人も戦の方に取られる」


スリフォンが尋ねた。


「名前は?」


少弐は少し考えた。


まだ存在しない寺だった。


海を渡ってきた僧。


兵庫津。


須磨。


家島。


そして、これからもその沖を通っていく無数の船。


「……渡海寺というのはどうだ」


黒田が反応する。


「随分そのままでございますな」


「分かりやすいだろ」


「少弐殿らしい」


スリフォンが笑った。


少弐も笑う。


だが、沖を見る目は真面目だった。


「いつか建てよう」


まだ家島には、その寺はない。


あるのは構想だけだった。


しかも今、家島を調べている最大の理由は羽柴への備えである。


それでも少弐は、その先を考えていた。


「戦になれば兵を置く」


そう言ってから、少弐は続けた。


「戦がなければ、坊さんを置けばいい」


黒田が少し笑った。


スリフォンは何も言わず、遠い海を見た。


三月前まで、自分たちはあの海のはるか先、アユタヤにいた。


そこから一人の僧が海を越えて須磨まで来た。


そして今度は、その僧がきっかけとなって、まだ影も形もない寺の話が始まっている。


羽柴秀吉が建部山で兵站を整え、但馬へ兵を送り込んでいるころ。


播磨では少弐冬明が、戦のために借りた寺の前で――


戦が終わった後にも残る寺の話をしていた。

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