天正二年八月――播磨を歩く
天正二年八月。
但馬では羽柴方の軍勢が動き続けていた。
佐久間、前田をはじめ、信長から借り受けた諸将が羽柴秀長らとともに但馬へ入りつつあるという。だが羽柴秀吉本人は、依然として建部山城からほとんど動かなかった。
入ってくる報告を見る限り、秀吉が握っているのは前線ではない。
米だった。
馬だった。
道だった。
荷駄だった。
どの軍へ何を送り、どの城へどれほど蓄え、どこから次の荷を入れるのか。
少弐はその報告を聞くたびに、嫌そうな顔をした。
だからこそ、自分も同じものを見ることにした。
「行こう」
ある朝、少弐は黒田孝高とスリフォンを呼んだ。
黒田はすぐに察した。
「須磨でございますか」
「まずはな。それから姫路まで行く」
スリフォンが少弐を見る。
「兵を連れて?」
「護衛だけでいい」
戦をしに行くのではない。
戦になったとき、自分たちが何を使って戦うことになるのかを見に行く。
そのためだった。
三人は兵庫津を出た。
最初に向かったのは須磨だった。
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須磨へ入ると、少弐は何度も馬を止めた。
「スリフォン殿、こっちを見てくれ」
少弐が海を指す。
すぐ背後には山が迫っている。
「ここは狭い」
スリフォンも周囲を見た。
「大軍は動きにくいですね」
「そう。だから前の戦では助かった」
黒田が補足する。
「ただし、我らも動けなくなります」
スリフォンが振り返った。
確かにそうだった。
西から敵が来れば、狭い土地は防壁になる。
しかし押し込まれれば、今度はこちらが兵庫津へ向かって細い道を退かなければならない。
少弐が笑った。
「いい場所だろう?」
「良い場所なのですか?」
「守っている間はな」
黒田が小さく笑った。
今回借り受けた寺は、そうした須磨の地形を利用するためのものだった。
寺へ着くと、少弐は住持へ改めて礼を述べた。
黒田がすでに話をつけていた。
寺そのものを取り上げるわけではない。
平時はこれまで通り寺として使う。
少弐側は修繕費を出す。
道を直す。
井戸を整える。
蔵も補修する。
その代わり、有事の際には境内の一部へ兵を入れることを認めてもらう。
少弐は堂より先に井戸を見た。
「水は?」
黒田が答える。
「ございます」
「何人くらい使える?」
住持まで困った顔をした。
スリフォンが笑った。
「寺を見に来たのでは?」
「寺を見に来たぞ」
少弐は真顔だった。
「だから水を見る」
次に蔵。
次に炊事のできる場所。
馬を繋げる場所。
負傷者を寝かせられる建物。
最後に高いところへ登った。
そこから海と街道を眺める。
少弐はスリフォンを手招きした。
「覚えておいてくれ」
「はい」
「兵庫津を守るなら、兵庫津だけ見ていては駄目だ」
西を見る。
「須磨で一日止めれば、その一日で兵庫津が動ける」
黒田が続ける。
「船を出す。兵糧を移す。援軍を集める。六甲から兵を下ろす。それだけの時間が得られます」
スリフォンは頷いた。
少弐が彼を連れてきた理由が、ようやく分かってきた。
これは名所案内ではない。
少弐たちが作ってきた戦場を、新しい将へ引き継いでいるのである。
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須磨を出ると、一行は西へ向かった。
少弐は急がなかった。
むしろ街道の途中で何度も止まった。
川を見る。
橋を見る。
脇道を見る。
村を見る。
「ここで米が買える」
「この道は雨が続くと悪くなる」
「この川は増水すると渡れない」
黒田が横から訂正することもあった。
「そこは新しい橋ができました」
「いつ?」
「昨年です」
「知らなかった」
「少弐殿が南方へ行っている間です」
「なら俺より官兵衛に聞いてくれ」
スリフォンが笑った。
少弐も笑った。
だが説明そのものは細かかった。
どの村が前の戦で焼けたか。
どこにまだ米があるか。
どの寺なら兵を休ませても揉めないか。
どこから山へ入れるか。
どの港なら小舟を着けられるか。
そして何より、
どこで兵を食わせられるか。
「戦は兵のいる場所だけで起きるんじゃない」
少弐は言った。
「兵がそこまで行く道全部で起きる」
スリフォンはその言葉を覚えておいた。
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姫路へ着いたころには、日も傾き始めていた。
こちらでも黒田が寺との話をまとめていた。
少弐は住持へ挨拶すると、須磨と同じように境内を歩いた。
堂。
井戸。
蔵。
馬を置ける場所。
周囲の道。
高所。
しかし姫路で少弐が見ていたものは、須磨とは違った。
須磨は最後の蓋だった。
姫路は違う。
播磨の中央で、人と物を受け止める場所だった。
少弐は地図を開いた。
「スリフォン殿」
「はい」
「もし北から敵が来たら?」
スリフォンは少し考え、北を指した。
「まずこちらから報せが来る」
「では西からなら?」
今度は別の道を指す。
「こちら」
「須磨へ直接戻る?」
スリフォンは首を振った。
「姫路で一度集める」
黒田が初めて満足そうに頷いた。
少弐も笑った。
「そういうことだ」
姫路を巨大な城塞にする必要はない。
情報を集める。
米を集める。
傷兵を受け取る。
虎衆からの報告をまとめる。
必要なら兵を北、西、東へ振り分ける。
播磨の中継点である。
そしてその後ろに須磨。
さらに兵庫津。
海上には、これから確認する家島がある。
少弐は地図に指を置いた。
「秀吉は建部山から兵站を動かしているらしい」
黒田が頷いた。
「こちらも、こちらの道を知っておく必要があります」
「だから今日は歩いている」
少弐はスリフォンを見る。
「俺と官兵衛だけが知っていても仕方ないからな」
スリフォンは少し驚いた。
まだ新参だった。
鷹衆三百を任されたとはいえ、黒田と並んで播磨の防衛線を一日かけて教えられるとは思っていなかった。
少弐は気にしなかった。
「次に俺が南の海にいるかもしれない」
黒田が呆れた顔をする。
「戦の前にはお戻りください」
「たとえばの話だ」
「少弐殿の場合、たとえになりませぬ」
スリフォンが声を上げて笑った。
その笑いが収まると、少弐はもう一度地図を見た。
須磨。
姫路。
そして海の向こうの家島。
まだ線にはなっていない。
城壁でもない。
だが、少弐には少しずつ見えてきていた。
秀吉が北から播磨へ入るための道を整えているなら――
こちらは播磨の中で兵が倒れずに動き続けられる道を作ればいい。
翌日は、さらに西へ行く。
そしてその後は船に乗る。
家島を見るためだった。
羽柴秀吉が但馬を攻めている間に、少弐冬明もまた、自分たちが守ることになる播磨を――
新しく加わったスリフォンに、一里ずつ教え始めていた。




